WANIMAはポップミュージックの地図さえ塗り替えるーーその音と感性のリアリティを探る
ひと月前、WANIMAの渋谷クアトロ公演を見た。やられた。叩きのめされたと言ってもいい。そこには確実に「今」しかなかった。
WANIMAはライブハウスの新世代。熊本から突如現れたパンクシーンの新星だ。それはデビュー当時から言われていたことだが、ずば抜けたセールス、フェスで目撃される「若者たちWANIMAのため大移動」の図、あっけらかんと老若男女を巻き込む楽曲クオリティを総合してみると、なんだか話の枠が小さすぎると思えてきた。彼らの音の射程範囲は、いわゆるパンク、ことにハイスタ以降連綿と続いてきたメロディック/ラウドシーンでは全然ない。これはもっと大きな波だ。もちろん今のところ、横山健率いるピザオブデスから登場=その後続者、という見方があるのは致し方ない話かもしれないが。
まず確認。今では数多のパンク/ラウド系バンドを扱うピザオブデスだが、その発足理由は実にシンプル。自分たちハイ・スタンダードの作品を世に出すためだった。誰かの前例に倣いたくはない。自分たちで全部で作る。今までない何かを自らの手で生み出したい。そこには「メロディック・パンクをやりたい」という気持ちなど微塵もなかったと思う。結果的にはその第一人者という扱いになったが、ハイスタの3人には、まず抜群のポップセンスがあった。そして(無謀とも言える)夢と(無茶を無茶とも考えない)勢いと(その結果どうなるかを考えなかった無防備すぎるほどの)爆発力があった。それらをかき集めた最初の結晶が自主レーベルのピザオブデスだったのだ。
彼らの成功を受け、後続バンドは、のびのびと夢を見た。無謀でも無茶でもない環境でパンクを奏でることができたし、ハイスタをよき前例としながら無防備ではない処世術や改造術も身につけただろう。90年後半からのパンクシーンは、初めて日本に根付いたメロディックの火種を、それぞれがどう受け継いでいくかというリレーの様相を呈していた。そのバトンも次第に細分化する。フュージョンや4つ打ちや歌謡の要素を取り込むプラスα型、レゲエやメタルも一緒くたに鳴らすミクスチャー型、より等身大の日本語詞メッセージを重視していくタイプ……。大雑把は百も承知だが、00年代以降に支持されたパンク/ラウド系のバンドは、ほとんどがハイスタ以降の潮流に与するものだった。本人たちにその自覚があろうともなかろうとも。
しかし、続きすぎたリレーには刺激が薄れ、走り続けるバンドたちにも息切れが起こってくる。もはやパンクに勢いがない、とは思わないが、台風の目になる新人がいない。そのことをはっきり感じるようになったのは00年代の後期あたりか。もちろん人気のバンドは人気のまま中堅になったし、ベテランは自分の責任を噛み締め、震災以降は特にメッセージ性を一気に強めていくから、彼らと共にオトナになった同世代は奮い立ったかもしれないが、若い世代はどうなのだろう。「フェスだと、何このオジサンって引かれる。はっきりアウェーを感じた」とは、2012年以降の横山健の弁である。
話がずいぶん長くなったが、そんな横山の前に現れた若い新人がWANIMAだった。メンバーの名前をそれぞれ頭文字にしたバンド名に深い思索はまったく感じられない。サウンドも然り。ハイスタと10-FEETとモンパチが大好きなのはよくわかるが、それをどう自己流に消化して今風に洗練してやろうという器用さが全然ないように見える。ドーン!とまずは楽しいことをやりたい。文字にすると馬鹿みたいだが、本当にそれだけの若いトリオである。
まず考えるのは、WANIMAにはパンクの自覚があるのか、ということだ。音の粗さとスカッとした明るさは90’Sパンク直系だが、精神に「パンクスかくあるべし」のスローガンがあるのかどうか。私には否だと思える。主語は、おそらく「パンクス」ではなく「俺たち」。ただ楽しくなりたい、ただ気持ちよくなりたい、このバンドでなんかでっかいことやらかしたい! その馬鹿みたいなエネルギーを持ったロックンロールが、やたらパンキッシュな勢いを感じさせる。これは大袈裟にいえば、あのニルヴァーナもまったく同じだった。やたら粗くてシンプル、ことさら新しくもない音なのに、何の流れにも与していないフレッシュさが勝っている。こういう衝撃は今までになかったものだ。
楽曲にも「パンクかくあるべし」の縛りが全然ない。とにかくポップで明るくて、もしかするとスピッツを引き合いに出してもいいかもしれない普遍性もあって。さらに、思いついたことは愚痴でも感謝でもセックスでも何でも歌になっていて、一度掴まれたら止まるのは無理というスピード感に巻き込まれてしまう。たんにBPMが高いのではなく、激しく上下するメロディラインとそこに乗る言葉の語感の良さ、さらにテンポよく配されるコーラスが、快楽のボルテージをぐんぐん上げていくのだ。センスがいいのは間違いないが、ここに「先人のバトンをどう自己流に解釈するか」という思索、もっという小賢しい計算はまったく感じられない。ただ、何もかも放り出して大笑いしたくなる圧倒的なエネルギーがある。思いつく感覚のまま。止まらない勢いのまま。あふれる夢のままに。