香月孝史『アイドル論考・整理整頓』 第六回:アイドルの「成熟」
ジャニーズとAKB48グループの比較から見える、男女アイドル「成熟」の違いとは?
とはいえ、組織としてそうした多人数を抱え、まだスキルや適性など方向性も未分化、発展途上の存在であればこそ、アイドルは個々のパーソナリティにこそ注目が集まりやすい。個々人が集団の中でどのように己を際立たせるかが、おのずと肝要になってくる。そうした個性発揮の場を多数用意するのがAKB48グループだが、そのAKBが組織全体で統一的にその群像劇を見せる場として用意しているのが、いわゆる選抜総選挙だろう。外面的には「1位」を決めて一直線に序列を見せるようなこのイベントは、実質的には各人が自身の布置を起点にして自己をファンに向けて位置づけるものでもある。もちろん、芸能である以上、平素から「選別」は人の目につかないところでいくらも行なわれ、その選別に堪えた者のみが人前に立つことになる。AKB48グループが行なっていることは、通常の選別であればふるいにかけられ「いなかった」ことにされる人までも含めて「芸能」の末端に自身を位置づける場を与えるものでもある。だからこそ、先述したような通常の「スキル」では測れなかった人々をフックアップする機会にもなるのだろう。
ただしまた、人目につかないところで選別されることと、ある種のセレクションにファンが直接に関与し、それそのものが巨大コンテンツになることとは性質が明確に異なるし、そうした消費に対しての倫理的な是非も大きくなる。ファン自身がそうした性質に無頓着でいられないからこそ、そうしたコンテンツのあり方をどう考えるのかということが、ここ数年ほどのAKB48をめぐる議論の争点のひとつだったはずだ。特に近年、総選挙というイベントにファンやメンバーもしくは社会が慣れ、「応援するための回路」として定着したことで、「劇薬」としての問題性が見えづらくなる一方、その投票行動の意味がさまざまな水準で問われるようになった。今年の選抜総選挙にみえた、AKB48グループのメンバーたち自身のそれぞれのスタンスからもそれはうかがえる。「総選挙」が当たり前になっていることの意味は、それ固有のトピックとして継続的に問われるべきことなのだろう(参考:AKB48『選抜総選挙』は“変化の季節”を迎えた? 各メンバーの参加スタンスから考える)。
とはいえ、冒頭の「成熟」の話に立ち戻るならば、限定的な基準であらかじめ少数選抜されず、自由度の高い場としてアイドルがあることは、若年の人々ばかりではなく、年数を重ねたメンバーが20代半ば以降に特有のポジションを持つこともまた許容する。たとえばジャニーズのデビュー組/ジャニーズJr.ほどその区分が明確でなく、年少者とベテランメンバーがゆるやかにつながっているため認識しにくいが、AKB48はアイドルグループとしては比較的に主要メンバーの年齢層が高く、また年長者の幅も広い。そうした広さがあるからこそ、たとえばいつでもグループを抜けられる、あるいはいつまでもグループにいられるような特異な存在として小嶋陽菜のようなメンバーも存在しやすくなる。もしくは小嶋のようなあり方はごく少数であるにせよ、SKE48の松村香織の台頭のような現象を見るとき、「過程である」ことを基盤にした余剰の広さは、女性アイドルの年齢層を知らず知らず上に押し上げうるひとつの可能性のように思える。それはジャニーズのような、ある種ストレートさをもった「順調」なキャリアアップの道筋とは大きく違う。しかし、まだジャニーズのような土壌を持たない、現在の環境を前提にせざるを得ないのであれば、彼女たちが描くような軌跡は女性アイドルと「成熟」との関わりにとってひとつの活路となるものかもしれない。
■香月孝史(Twitter)
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。