加藤シゲアキ『ピンクとグレー』が描くアイドルの本質とは? 村上春樹作品との比較から考える

 しかし、本作がユニークなのは、蓮吾の遺書が複数用意されていることである。蓮吾は、どの遺書を公開するかを親友である河田の選択に委ね、どの自分がいちばん自分らしいかを河田に決めてもらおうとする。ここにはおそらく、アイドルという存在の本質が示されている。つまり、本当の自分すらも受け手に委ねる、アイドルはそのようにしか生きられない、ということである。この点に作者の、アイドルとしての覚悟を感じた。『ダンス・ダンス・ダンス』では、五反田君の死後、「週刊誌やTVやスポーツ新聞が彼の死を食い荒ら」されることになる。そして、五反田君の友人である「僕」は、「そんな見出しを見ているだけで僕は吐き気がした」と語る。同様のことは、本作において蓮吾の死後にも起こる。マスコミが勝手な真相をでっちあげる。どころか、事件の容疑で逮捕された河田が、今度はその逮捕映像がかっこいいということで、アイドル扱いされたりもする(このあたり、市橋達也をめぐる騒ぎが意識されているだろう)。ファンや受け手は勝手なものだ。しかし、その勝手さのなかで生き続けるのがアイドルなのかもしれない。『ダンス・ダンス・ダンス』における「僕」の態度と違い、河田は迷いつつも蓮吾についてのノンフィクションを書き、その映画版には、自らが蓮吾の役となって出演することを決める。河田が蓮吾を演じることによって、蓮吾側の視点から物語が再構成される後半は見事である。というか、けっこう感動的である。

 どう考えたって、アイドルにはアイドルの苛酷さがある。良くも悪くも、誤解や偏見にさらされる。自分を見失ってしまうことだってあるだろう。軽々とは言えないが、しかし、そうやってファンや受け手のなかで生き続けるのがアイドルという存在なのかもしれない。だからこそ、アイドルには気高さを感じる。物語中、蓮吾を主人公にした映画の報せを聞いて、蓮吾の母親が発する言葉が象徴的だ――「そう、嬉しいわ。真吾は死んでからも生きる事ができて幸せね」。アイドルはファンのなかでこそ生き続ける。このような物語を他ならぬ現役アイドルが書いたことに、少なからぬ感銘を受けた。

■矢野利裕(やの・としひろ)
批評、ライター、DJ、イラスト。共著に、大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸『村上春樹と一九九〇年代』(おうふう)などがある。

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