宇多田ヒカルの新作『Fantôme』先行レビュー! 多彩なサウンドがもたらす「驚き」について

 宇多田ヒカルの8年ぶりのアルバム『Fantôme』を、もし誰のアルバムか知らないまま聴いたとしても、私はレビューを引き受けていただろう。そのぐらい日本のポピュラー・ミュージックのアルバムとして驚きのある作品だったからだ。

 アルバムは「道」で幕を開けるが、このトライバルな感触には驚いた。まるでフレンチ・アフリカンのアルバムを聴きはじめたかのようだったのだ。特に「道」のBメロの細かい譜割りと、タメもきかせた歌唱の絡みあい方は、私が抱いていた宇多田ヒカルのイメージを一気に吹き飛ばすのに充分だった。彼女自身のプログラミングを主体としたサウンドと歌唱の向こうに、遠くアフリカが見えたのだ。アルバムの幕開けは予想もしないものだった。

 「俺の彼女」は、ダブル・ベースの音から始まり、バンド・サウンドにストリングスも絡みつつ、ブルースの香りを漂わせていく。一方で、歌詞は男性と女性の視点が交互に登場するものだ。宇多田ヒカルが歌でナチュラルに2人を演じられるのは、ボーカルの力量があってこそのものだろう。男性性と女性性を歌で自在に操ることは、想像するほど簡単なことではない。

 「二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎」は、ひとつの視点の中に椎名林檎のボーカルが加わることによって緊張感を増している楽曲だ。宇多田ヒカルが歌う1番だけを聴くと、日常性からの逃避を歌っている穏健な楽曲のようだが、椎名林檎が歌いだす2番には不倫を連想させる歌詞もあり、椎名林檎の歌い回しも含めて楽曲の雰囲気を一気に引き締めてしまう。ボーカル面において、柔和な宇多田ヒカルと硬質な椎名林檎の対比が鮮やかなトラックでもある。

 生のハープとドラムを伴奏に歌う「人魚」は美しい。そもそも、ボーカル、ハープ、ドラムのみでポップスを成立させるというのも冒険的な試みだ。そして「人魚」はそれを成功させている。

 プログラミングのドラムから始まる「ともだち with 小袋成彬」は、「道」と並んで『Fantôme』というアルバムを象徴している楽曲だ。この曲で宇多田ヒカル自身が手掛けているブラス・アレンジは、濃厚にアフロの匂いがする。「道」や「ともだち with 小袋成彬」のような楽曲を生み出す宇多田ヒカルが近年聴いている音楽とはどんなものなのだろうかと想像してしまった。

 宇多田ヒカルの息遣いがビートを刻む「荒野の狼」は、ブラス・セクションとストリングスが渦を巻いていくかのようなサウンドだ。ソウルフルな歌唱が印象的だが、しかしこの楽曲を「ソウルフル」の一言では片づけられない。「荒野の狼」のブラス・アレンジにもアフロの匂いを嗅ぎとったからだ。ドラムとベースが繰り返すリズムはブレイクビーツのようで、ヒップホップ的でもある。そして、しなやかにして熱を帯びた宇多田ヒカルのボーカルがサウンドを牽引しているかのようなトラックだ。

 「忘却 featuring KOHH」でラッパーのKOHHを迎え、共作までしていることには驚いた。KOHHはZeebraや般若の楽曲にも参加してきたが、今度は宇多田ヒカルである。KOHHが描いていく死生観の合間に、宇多田ヒカルのボーカルが挿入されるが、その歌声はせつせつとしていて、しかも生々しい。熱さと冷たさ、硬さと優しさ、そして生と死。こうしたコントラストを、KOHHのラップと宇多田ヒカルのボーカルで描いているのが「忘却 featuring KOHH」だ。

 宇多田ヒカルがプログラミングした「忘却 featuring KOHH」は鼓動の音から始まる。壮大にしてトライバルな感触のトラックは、生きていく中で抱く恐怖や、死への想像を歌う楽曲にふさわしい。『Fantôme』というアルバムにおける最大の問題作であるとも感じだ。

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