制作するペルソナ:バーチャルYouTuberの“新しい生”

バーチャルYouTuberは「絵付きの実況者」になったのか?

 誰かが問うた。「バーチャルYouTuberは絵付きの実況者になったのか?」ーー答えはYESでありNOだ。

 YESだ。VTuberの多くは最初期待されたようなバーチャルとリアルの自己像の変容 / フィクションとリアルの越境 / メディア・アート的な志向を持たなかった。「にじさんじ」「ホロライブ」といった企業VTuberの中の人たちの多くはニコニコ動画を始め、「歌い手」「実況者」出身であり、彼ら自身の受容のされ方はそれらの文化と接続されている。VTuberの実況 / 動画を単体のパフォーマンス作品として見たなら「絵付きの実況者」と言うにふさわしい。ゆらゆらと画面端で蠢き(立ち絵で済まされることさえある)、ゲーム実況や歌配信や雑談やコラボ企画をしている。YouTubeではスーパーチャットが投げられる。感謝する。笑いが起きる驚きが生まれるコメントが流れる。ときに荒れる。ここにはファンダムがある。それは実況文化のどこかで見られてきた場だ。

 NOだ。企業VTuberも、個人勢と呼ばれる中小の企業に属さないVTuberも、「絵付きの実況者」という言葉では見逃され、溢れてくる独特な生を生きようとしている。バーチャルな存在のナラデハの生。わたしたちにモデルを与える生……。

自己言及と生のスタイル

 バーチャルな存在の生、バーチャルYouTuberを代表とするバーチャルな存在たちは実況者とは毛色の違う生を生き始める。光を当てるための鍵はバーチャルな存在たちの身体構造にある。

 バーチャルな存在たちは三つの身体を持っている。中の人である「パーソン」はアバターや画像などの「キャラクタ」を纏い「ペルソナ」を生きる。

 たとえば『キズナアイ』というVTuberがいる。アイちゃんと呼ばれる中の人「パーソン」が「キズナアイ」という「キャラクタ」の画像を纏い『キズナアイ』という「ペルソナ」を生きる。バーチャルな存在は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの層を重ね合わせずれて存在する。キズナアイパーソン、キズナアイペルソナ、キズナアイキャラクタの三つの身体がある。構造化された身体。三つの層、これを“三層理論”と呼ぶ。

 バーチャルな存在たちの独自性は、ペルソナがパーソンのものではなくキャラクタのものであること。しかもキャラクタはほとんど物語を持たないこと。月ノ美兎のパーソンとペルソナを離れては、月ノ美兎キャラクタは生き続けられない。もし月ノ美兎のパーソンが変わってしまったら、キャラクタの姿は変わらずともそのペルソナは完膚なきまでに変容する。声優交代があってもキャラクタが生き続けられる物語を持つタイプとは違う。バーチャルな存在たちのキャラクタには性格がないから。キャラクタを用いるからバーチャルな存在たちのペルソナとパーソンの姿は大きく違う。アイドルのペルソナはパーソンの現実の顔と対応している。バーチャルな存在のペルソナには顔がない。

 見えているイメージだけではない。見えないイメージも纏う。TwitterやYouTube、歌ってみた、各種イベントを介して、切り抜き動画、コメント、ファンによって『キズナアイ』の共通理解としてつくりあげられる特定のペルソナイメージの中で、バーチャルな存在は生きている。重要な点がある。ペルソナイメージがつねに理想とずれていること。ずれが自己言及を生み出すから。自己言及? それはVTuberの中の人「パーソン」自身による自分の「ペルソナイメージ」再構成への積極的な参加。

 VTuberとしての生の考察をVTuberが行い始める。新しい生の「スタイル」の原液になる。スタイルとは理想へ向かいつつ、現実に不満を抱えつつ理想と現実のあいだで引き裂かれながら、自分のあるべきあり方を求めるあり方だから。

 たとえばあなたは、あなたのなりたい姿におしゃれをしようとする。理想を自己の身体というペルソナにおいて体現しようとする。もちろん理想はそのまま自己にはならない。どこかで経済的な・身体的な・性格的な限界がある。それでもあなたはあなたのスタイルを求めることをやめられはしない。おしゃれであれ、仕事であれ、表現であれ。

 スタイルが生そのものに拡張されるとき生のスタイルになる。あなたの理想の生と現実の生に裂かれながらあなたは求める人生を求める。理想と現実はずれる。

 VTuberも同じく生のスタイルを持つ。なぜならVTuberはパーソンでもあるから。同時にVTuberではないあなた(たぶん)とVTuberとの間には自己の制作に使える材料が異なってくる。なぜならVTuberは特別なペルソナとキャラクタを持つから。 その異なりを考えたい。VTuberが「絵付きの実況者」である以上の何かがそこにあるから。VTuberが求める理想と実態のずれに何かが。

雨森小夜とアイドル活動

 第一のずれ。VTuberになることと理想のあいだの。にじさんじ所属の雨森小夜はツイートした。

ここ最近は本当に悲しくなるくらい本を全く読めていないので少し昔の話をします
この小説はわたしがにじさんじに応募してみようと思ったきっかけのひとつです
最後にして最初のアイドル  #ハヤカワ・オンライン

 SF作家・草野原々『最後にして最初のアイドル』の同名中編で、精神を病み虚弱ながらアイドルになることに憧れた主人公・古月みかは失意の中、自殺した。みかを愛する新園眞織の執念によってみかは『フランケンシュタイン』の怪物よりもおぞましい姿で蘇る。復活したみかは鏡を覗いた。

肉屋の廃棄物。たとえるなら、それが一番近い。眼に入ったのは、クリスマスツリーの飾りつけのように垂れ下がった臓物だ[……]どこにも顔は存在しなかった。代わりに発見したのは、水晶球のなかにある、赤茶けた脳と、その横で忙しげに左右に動く眼球のみであった

 みかの行動原理はアイドル活動に邁進すること。太陽フレアの後、地球上にはアイドルを応援するファンは絶滅した(みかを応援しない人類の生き残りはみかがうっかり食べ尽くしてしまった。元気なアイドルはよく食べるから)。みかは気づく。「自分は、ファンとなるべき人々を殺していたのだ。ファンはアイドルの本質である。ファンがいないアイドルはアイドルではない」。アイドル活動をするためにアポカリプス以後の地球からアイドルファンに足る知性的存在を生成するため宇宙全体を実験台に意識の生成革命を起こす。ファンはアイドルの本質だから意識を作り出すことが本源的なアイドル活動。

 雨森小夜は「小夜ちゃん」と繰り返す。雨森小夜パーソンは小夜ちゃんペルソナで遊ぶ。雨森小夜キャラクタ画像と設定を使いペルソナを作る。雨森小夜パーソンはアイドル活動をしている。雨森小夜パーソンの目的は本源的なアイドル活動。新たなファンを生成すること。雨森小夜は視聴者があっけにとられるような配信を繰り返す(月に一回あれば多い)。雨森小夜にとっての自己制作とはファンを制作すること。異様な配信を繰り返すことで異様なファンを生み出し自己制作を行いたい。アイドル活動。どこからどこが雨森小夜のパーソンなのか、それとも雨森小夜ペルソナイメージなのか。もはや問題にならない。アイドルとはアイドルファンであり、アイドルファンはアイドルだから。問題はあなたが雨森小夜のファンになり雨森小夜になるかどうかだから。

 雨森小夜は窺い知れない。VTuberになることで彼女は何を求めているのだろうか? その欲求自体彼女は彼女のうちに持ってはいない。理想は見えなくても理想でありうるということ。それが彼女の生のスタイルになっていく。

届木ウカと身体のないおしゃれ

 二つ目のずれは身体。届木ウカは身体を制作する。アバターを用い配信活動する届木ウカは言う。

私は人形や硝子細工などの無機質な造形を好むため、どれだけ化粧やお洒落をしても、新陳代謝の行われる自身の有機的な肉体に対して、これが百点の肉体であるとは言えません。生まれや環境によっては、服装や髪型の選択肢をそもそも選べない人も決して少なくないでしょう。

そのため私は肉体と、「届木ウカ」という仮想身体《バーチャルアバター》の二つの身体を持つことで、自身の存在の補完を行いました。もとよりクリエイターとして活動していたため、自身の肉体を支持体やメディウムの一種として捉えていたことも起因しています。

バーチャルアバターとは貴方の身体や精神を拡張、補完するための姿であるとも言えるかもしれません。

 届木ウカは「自身の肉体」と「私の精神や自我」のずれを語る。届木ウカパーソンはその肉体に疑問を持つがゆえに仮想身体を必要とする。届木ウカパーソンにとって現実に心を宿すパーソンの身体は偶然の媒体であり、生のスタイルが棲むべき場所はバーチャルにある。なぜわたしたちはよりによってこの身体でわたしを生きねばならないのか。この身体はわたしの身体だが、わたしそのものではない。届木ウカの試みは突飛ではない。わたしたちが現実でよくやる身体のおしゃれの少し先にある「身体のないおしゃれ」。おしゃれもまた理想と現実のずれに焦点を当てる「なぜこの身体なのか」を問う営みなのだ。

 パーソンとキャラクタのずれを克服しようとする意志。おしゃれの極北にある届木ウカの試みはわたしたちの身体的自己制作のシルエットを際立たせる。ずれは身体にある。届木ウカはずれを生きている。身体を制作することでそのずれを乗り越えようとする。

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