戸田恵梨香と伊藤沙莉が魅せる“オーソン・ウェルズ形式” 『地獄に堕ちるわよ』の緻密な戦略

ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本における独占配信権をNetflixが取得し、大谷翔平や山本由伸の活躍を期待した日本国内視聴者がこぞってNetflixに加入したことによって、同社は大幅な加入者増の恩恵に浴し、劇的な業績向上を見せたと経済面で報道された。もはや死語かもしれない「キラーコンテンツ」なるタームがおそらく最後に適用されうるできごと――WBCのNetflix独占配信はまさにそれであった。
これによって激増した加入者は若年層ではない。韓国ドラマや米国ドラマを視聴するために、若年層はとっくの昔にNetflixに加入し終えており、今回激増したのは高齢者層である。サブスクリプションに対する根強い抵抗感は、今回のWBCによって完全に切り崩された。高齢者ニューカマーの群れを同社は何が何でも引き止めなければならない。その第一作戦こそ『地獄に堕ちるわよ』であるにちがいない。

1990年代から2000年代にかけてテレビ界を席巻した細木数子は、業績から言えばスーパースターだった。「ガラパゴス」という日本社会を自己卑下するニヒルなタームが取り沙汰された時代を映すガラパゴス・スター。その強烈な光彩をいまなお記憶する世代に、いまいちど細木数子の幻影を投げつけてやる。WBCから細木数子へ――激増した高齢加入者に対するウェルカムパーティーは、この2つの銅鑼が激しく打ち鳴らされる。
若年層は細木数子にまったく興味がない。しかしパーティーが華やげば、振り向く若年層もいないではない。NetflixはWBCから細木数子へというパーティーメニューを、おそらくは何年も前から計画し、今日に至っているのであろう。細木数子に興味がなくても、昭和・平成の狂騒的なドラマティック性に対しては、誰もがノスタルジアを抱く。時代はノスタルジアである。ノスタルジアは世代間格差をおもしろいように無化する。世代どころか、国境の格差さえぶっこわす。日本の昭和歌謡、80’sシティポップスが欧米のミュージックシーンでニッチな注目を浴びていることは周知のとおりだ。
「竹内まりやの素晴らしさに、世界がやっと気づいてくれた!」――この高揚感、多幸感は高齢層から若年層まで例外なく共通する。没落いちじるしいこの日本で、私たち日本人は大谷のホームランに快哉を叫び、山本の粘投に目頭を熱くし、その続編として、昭和・平成の狂騒的なドラマティック性の、自己申告的なボランティア紹介者に変貌する。「竹内まりやどころじゃない。こんどは島倉千代子まで遡ってしまおうじゃないか! 島倉千代子のどん底からのV字回復を、Netflixを通じて全世界の人々が“遅まきながら”知ることになるのだ!」――この溜飲の下げっぷりは何にも替えがたい。この高揚感、多幸感を共有するためには、島倉千代子の何たるかを知らなくてさえ問題ないのである。
戦後の混乱期から、朝鮮特需による復興期、オリンピックによる都市改造というダイナミックな歴史の荒波のありようを、まるで同時代の日活映画を丸ごと再現したかのような、さすがは全世界相手に商売しているNetflixらしい莫大なバジェットによって、ゴージャスなセット美術とコンピュータグラフィクスの組み合わせで現出させた。その意味でドラマ『地獄に堕ちるわよ』最大のスターは、何を隠そう美術監督の原田満生であろう。

原田満生は阪本順治監督『顔』『愚か者 傷だらけの天使』『KT』『団地』『冬薔薇』『せかいのおきく』や、松岡錠司監督『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』『映画 深夜食堂』、石井裕也監督『バンクーバーの朝日』『舟を編む』などを手がけた、現代日本映画界を代表する美術監督である。そんな原田にとっても、『この世の外へ クラブ進駐軍』(2004年)におけるオキュパイド・ジャパンや『テルマエ・ロマエ』(2012年)における古代ローマ帝国のプロダクションデザインのスケールをも凌ぐ経験だったのではないか。
原田満生を『地獄に堕ちるわよ』最大のスターとして謳ったからといって、主人公・細木数子を演じた戸田恵梨香を過小評価しているわけではない。少女時代から太極拳に親しみ、ジムで作り上げられたとされる、研ぎ澄まされたスリムな肉体は、正直なところ、ヘアスタイル以外はまったく細木数子本人に似ていないように思うが、きっとそれで良いのだ。だいいち、冷淡な世界市場においては細木数子なるテレビ占い師など、なんのネームバリューもない。ドラマの真の主人公は原田満生のゴージャスな時代美術と、激動の日本社会を体現したノスタルジアであって、占い師のスターペルソナではない。
だから戸田恵梨香としてはモデルに対するリスペクトの念を忘れずにいつつも、より高次のエステティックな創造性において、いっそ細木数子を置いてけぼりにしてよいのである。戸田恵梨香が世界市場を相手にしながら、真に対峙せねばならないのは細木数子をオーセンティックに再現するなどというケチな課題なんかではない。今回の彼女はウォン・カーウァイの香港映画にまぎれこんだ気分で、画面の中を妖しく発光しなければならない。戸田恵梨香が対峙しなければならないのは、細木数子その人ではなく、『花様年華』(2000年)のマギー・チャンが体現してやまぬゴージャスネスであり、ノスタルジアの魔力である。





















