『冬のさ春のね』は恋愛論であり人生論に 今泉力哉が描いた“編まれていく”自己の物語

『冬のさ春のね』は何を見るドラマだったのか

 『冬のなんかさ、春のなんかね』(日本テレビ系/以下、『冬のさ春のね』)は、自分が20代前半(独身)だったら、観終わったその日の夜はお酒が飲める場所に行って、その場にいる人と何かを語らっていないと気がおかしくなりそうだな、と思うドラマだった。正直、30代前半(既婚)でも何度かそうしたいと思ったものだ。

 とはいえ、飲みに行ってその場にいた人と話したいことは、決してドラマの内容そのものに限定されない。むしろ、全く関係ない話かもしれない。よく行く立ち飲み屋で最近、バーカウンターの角に集う恰幅の良い50代くらいの男性陣がハイボールを飲みながら「やっぱり明太子パスタって美味しいよね」「僕はジェノベーゼも好きだ」なんて話をしているのを小耳に挟んで、多幸感に包まれながらお酒を飲むことができた。なんて平和なんだろう。みんな、一生好きな食べ物の話で盛り上がればいいのに。一方、恋愛の話はもうなんだか頭が痛くなってくる。どうしたって、そこに個人の経験に基づく批評的な眼差しが生まれてしまうからだ。『冬のさ春のね』の主人公・文菜(杉咲花)の恋愛模様も、飲み屋の隣で小耳に挟んだらエンタメとして消化してしまいそうな、しかし聞き続けていると段々に言いたいことが喉の奥から込み上げてきそうな話であった。

 特に第1話からの数話は、文菜の恋愛志向に対して否定的な意見も多く、そういった我々が持つ他者の恋愛観に対する批評性が暴かれるような話題の生まれ方が印象的だった『冬のさ春のね』。各話“ものすごいもの”を見させてもらいながら、自己の恋愛観と引照していくつかの気づきを得る。そういった個人の過去・現在を見つめ直すような機能を持つ会話劇が、本作における唯一無二で最大の魅力だったように思う。そんな『冬のさ春のね』に、改めて何が描かれていたのか、振り返っていきたい。

伝えることも大事だけど、伝えないことも大事

 特に第9話と第10話(最終話)では、文菜とゆきお(成田凌)の別れ話は観ていても聞いていてもしんどく、特に文菜の“全てを話してしまう”暴力性が印象的に描かれていた。もちろん、ゆきおもマフラーを編んでもらった理由、そしてそれを受け取る気がなかった本音や紗枝(久保史緒里)との関係を伝え、応酬する。なぜこうも、別れ話はスパーリングになってしまうのだろう。

 今泉力哉監督の書く作品の多くが、“伝える”ことを描く。特に印象的な『mellow』という映画では、登場人物がそれぞれ気持ちを伝えようとする様子をカメラが捉える。しかし、伝えすぎたらダメになってしまうのが、恋愛であり、ひいては人間関係というものなのだ。文菜の全てを打ち明ける行為は、そこに聞く聞かないの選択とゆきおの自由意志があったにせよ、相手を傷つける身勝手なものとして作品の中で捉えられている。ゆきおがしきりに彼女に「身勝手だなぁ」と言うように。思い返せば、一番好きだった男・亮介(松島聡)に送ったメールを振り返りながら、その加害性を自覚していた文菜の姿が第6話でも描かれていた。

 のちに文菜は「好きってなんなの!」と泣きながら愚痴るが、この作品において(そして作品の枠を超えて恋愛の一般論としても)好きとは、自分を相手に伝えたい、知ってもらいたい、それと同時に同じように相手を知りたいという感情に基づいているように思う。それゆえに、ゆきおの「もうあなたのことを知りたいと思えない」の言葉が重みを持つのだ。

 伝えすぎることをやめた方がいいのは、それが自ら相手に「もう十分に知ってしまった」と思わせることであり、「知りたい」という探究を削ぐ行為だからだと、本作は教えてくれる。伝えすぎた情報からさらなる興味が生まれることもあるが、冷静に考えてあの場面で全てをぶちまける文菜のような人間に対して「おもしれー女(男)」なんて言う男(女)はほとんどいない。大概がゆきおのように「知らねー、まじでどぉ〜〜でもいい〜〜」となるのが現実なのだ。冷たいかもしれないが。何度も機会はあったはずなのに、打ち切りが決まってからの最後の数話で今更ヴィランの過去や背景を語ってキャラクター性を深掘りされたって、連載終了している作品だもの。続きが読みたかった気持ちもゼロではないが、しばらく漫画を読むのをやめるか新連載に乞うご期待してしまうってものだ。

 それでも、やはり自分が傷つくから虚勢を張ってそんなふうに言ってしまうことだってあるし、1人になったら泣いてしまうくらいには文菜のことが好きだったゆきおも、普段あれだけ冷静に何かを俯瞰し、言葉を尽くす生業なのに別れたくない気落ちを「やだ!」でしか表現できなかった文菜の人間くささも、愛おしいと感じる。

 伝えるとは、難しい。人間関係において必要不可欠で最も重要なコミュニケーションの難儀さ、特に恋愛におけるそれは付き合っているときも、結婚した後も続いていく。

 『冬のさ春のね』は、そういった恋愛における困難さと失敗を文菜が体当たりで見せていくところに魅力がある作品だった。ラーメン屋で部下をいじめている上司に一言言ってやるとか、好きな人が複数できたら一旦みんなと同時に会ってみるとか、恋愛に限らず「あの場面でこうしていたら、どうだったのだろう」と、選び取らなかった選択肢を文菜が選んでくれることで、それが見どころとなり、批評の対象にもなり、ヒューマンドラマとしての深みになっていたように感じる。

目に見えるようで見えない空気を、“目”で描く

 本作には「恐ろしい」と感じるものが多々描かれているのだが(特に最終話のHuluディレクターズカット版の“謝罪呼び出し”は観ているだけで具合が悪くなりそうだった)、特に恋愛ドラマとして唯一無二だと思わせるのが、“空気”の映し方なのだ。

 例えば小太郎(岡山天音)にイラついてラブホに行った場面で、互いが互いにとって面倒くさい感じになりながらも、性愛以上の関係性があることを実感して笑い合ってしまう空気や、亮介が体現する「好きな女」の前でいる時と「そうでもない女」の前でいる時の空気、壁の色がかわいいと気づいている文菜と同じ意見を持ちながら、店の前で一緒に見送るゆきおを見つめる紗枝の持つ空気。挙げ出したらキリがないのだが、とりわけ温泉宿泊デートの時の、「もうすぐ別れが訪れる」と直感で理解してしまうあの空気の寂しさは尋常ではなかった。

 やりとりもそうだが、その2人が纏う空気に怖いくらいの既視感を覚える。空気なんて目に見えないはずなのに。それでも、「あ、これ、知っている」と思わせる空気がいくつも、そしてあまりにも正確に映すところが本ドラマの凄みで、それを実現させたのが今泉監督の眼差しと、役者陣による目の演技なのだ。

 ゆきおが寝静まった後、文菜が起きている時の部屋の空気。それを彼女のゆきおを見つめる目で、感じる。次の日の朝、マフラーが欲しいと言った後、文菜の背中を見つめるゆきおの目。もちろん、ちょっとだけいやらしいお酒の飲み方をする文菜に“目で勃起”していた大学時代に付き合った初彼の佃くん(細田佳央太)のことも忘れられない。

 本作は言葉に溢れているようで、それに捉えきれないものがたくさん登場人物たちの眼差しを通して可視化され、言語化されている。そこがやはり、並大抵の恋愛ドラマと一線を画した点のように感じるのだ。

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