『君が最後に遺した歌』は実質的な“セカコイ2”? 道枝駿佑の眼差しと生見愛瑠の歌が共鳴

日本で大きなヒットを成し遂げるとともに、韓国で邦画実写映画歴代2位となる観客動員数を獲得するなど、台湾や香港など東アジアでも大きな話題を呼んだ一作、『今夜、世界からこの恋が消えても』。この、通称「セカコイ」と呼ばれる恋愛映画の“再来”と呼べる映画の公開が始まった。通称「君歌(きみうた)」こと、『君が最後に遺した歌』だ。
『セカコイ』原作の一条岬、監督の三木孝浩、音楽プロデュースに亀田誠治、そして主演に道枝駿佑という座組の本作『君が最後に遺した歌』は、ストーリーや設定は異なりながらも、もはや実質的な『セカコイ2』といえるような本質を持つ作品に仕上がっている。伝説的ヒットを成し遂げた快挙を、もう一度目指すという意思もひしひしと感じるところだが、本作ではさらに“歌”という要素を加えたところに独自性があるといえるだろう。
ここでは、そんな本作の要素を振り返りながら、その魅力や特徴、やや懸念される部分も含めて、作品の本質部分を明らかにしていきたい。
※以下、『君が最後に遺した歌』の重要なストーリー展開を明かしています
なにわ男子の道枝駿佑は、前述したようにアジア圏での記録的ヒットにより恋愛映画への適性は証明されているようなものだが、本作でも特性を前面に押し出しながら安定的な演技を披露している。高校生から大人まで成長していく役を通して、受け身ながらも健気にヒロインの幸せをどこまでも考える誠実な生き方……。それが、『セカコイ』から継続される、役柄としての魅力である。
一方、ヒロインを演じる、「めるる」こと生見愛瑠も役にフィット。ギターで歌を弾き語ることが好きで、カリスマ的ながら繊細な役柄を見事に体現している。ボイストレーニングを経たことで、プロのシンガーのパフォーマンスにも説得力を持たせているなど、実際の彼女自身の才能をも本作に反映させている。
物語は、詩作を趣味とする男子高校生・水嶋春人(道枝駿佑)が、優れた歌唱力を持つ女子高校生・遠坂綾音(生見愛瑠)に、自身のオリジナル作曲の歌詞制作を頼み込まれることで動き出していく。はじめは自分の才能を表に出すことができなかった春人だったが、輝くような魅力を放つ綾音に引っ張られるようにして、次第に前向きになっていく。
綾音が作詞を頼んだ理由の一つには、読み書きの習得が困難な障害「発達性ディスレクシア」を、彼女が持っていたからだった。その部分を春人が補うことで、2人は音楽活動のパートナーとなるとともに、交流のなかで強く惹かれていく。しかし、綾音がプロの世界で成功を成し遂げようとするとき、春人は自身の作風がプロの世界で通用しないと感じ、綾音を大きな舞台に羽ばたかせるために、自ら身を引くという決断をする。
ここからの展開と、逆光や紗を利用して俳優をきらめかせる映像、そして、主題歌のフレーズを何度も劇中でリフレインさせるなどの音楽による演出が、作品をよりドラマチックに盛り上げる。「ベタ」と言っていいほどに王道的ながら、これらの手際は『セカコイ』を経て、飛躍的に洗練されていると感じられる。ラストで観客を大きく感動させるための仕掛けは、涙を搾り取るという“解答”へと導く、鮮やかな“数学的公式”にすら見えてくる。
細かいギミックと、俳優のパフォーマンスがしっかりと相乗効果を生み出しているところは、本当に素晴らしい。例えば、高校の渡り廊下で2人が運命的な対面をする場面は、学校の制服とパーカー(フーディ)とを組み合わせている生見のビジュアルが破壊的なまでに印象的だが、そこでパーカーを着ていたことが、後に盛り上がる場面の効果的な伏線となっている。つまり、こうした製作側の目論見を、俳優が不発に終わらせていないのだ。
こうしたヒロインの魅力があることで、道枝の特徴も際立つ。彼女をサポートし、その輝きを消さないようにする役で表現する、弱いながらも誠実な姿は、現在の日本社会で求められる一つの理想的男性像として機能している。さらに今回の設定では、両者に社会的な“格差”を持たせることで、その優しさや健気さが、むしろ大きなものとして感じられるのだ。

























