『今夜、世界からこの恋が消えても』韓国版は日本版とは別もの? 違いが生まれた背景とは

通称『セカコイ』と呼ばれ、多くのファンに愛されている、2022年に公開された日本の恋愛映画、『今夜、世界からこの恋が消えても』。小説家・一条岬の同名原作を映画化して話題を集めた、この作品が、新たに韓国の製作でNetflix配信映画として同名のタイトルでリリースされた。
道枝駿佑、福本莉子が演じたカップルを、今回のリメイク版ではチュ・ヨンウ、シン・シアが演じ、映画の舞台は神奈川県藤沢市から、同じく海に面した、韓国南部の麗水(ヨス)市へと移された。
だが、この韓国リメイク版、ストーリーは大筋で同じではあるが、その構成やキャストの雰囲気が日本版とはかなり異なり、別もののような印象を受ける作品に仕上がっている。いったい、なぜこういった明確な違いが生まれたのだろうか。ここでは両作品の内容を振り返りながら、本作の意図を考えてみたい。
記憶を失うという設定を利用した恋愛物語は、『セカコイ』以前にもさまざまな作品で描かれてきた。代表的なのは、アダム・サンドラーとドリュー・バリモアが主演した『50回目のファースト・キス』(2004年)だ。このヒット作は、山田孝之と長澤まさみ主演で、日本版リメイクが製作され、2018年に公開されている。
設定の類似の多さから、『セカコイ』が『50回目のファースト・キス』の影響下にあること、もしくは意識をしていることは明らかだが、それでも二番煎じの作品だと軽視されなかったのは、そこからさらなる展開を作り、本筋に密接な、もう一つの物語を創造した部分にあるだろう。ヒロインがそうした記憶を失っている、もしくは取り戻せるかといった内容は、恋愛の枠組みを超え、人間の認知によって、その人の中で他者が存在し得るといった、ある種の哲学的な存在論への思考を促してもいる。
物語は、ハン・ソユン(シン・シア)が自宅の部屋のベッドで目を覚ますところから始まる。壁には「あなたは事故で記憶障害があります。パソコンをチェックすること」というメッセージが貼られている。彼女は事故が原因で「前向性健忘」という病気を患っていて、睡眠をとってしまうと事故後に起こったこと全ての記憶が“リセット”されてしまうのだ。
そんなソユンと、ひょんなことから恋人になるのが、同級生のキム・ジェウォン(チュ・ヨンウ)だ。お互いに恋愛感情から交際を始めた2人ではなく、「本気で好きにならないこと」という約束すら交わすのだった。だが、そんな約束は揺らぎ始める。ソユンはジェウォンに病気のことを隠しながら、恋人のいる生活を楽しんでいくことで、彼への感情を深めていく。その深度を、ソユンはメモを頼りに、毎日知ることとなるのである。
そんなある日、ソユンはデート中に寝てしまい、ジェウォンの前で記憶を失いパニックに陥ってしまう。ソユンはやむを得ず自身の境遇を打ち明けるのだったが、彼女に負い目を感じたり悲しい思いをさせたくないと考えたジェウォンは、「明日の君を2人で騙そう」と、提案する。病気について話したことをメモに残さないことで、ソユンは変わらず彼との関係を続けていくのである。しかしそんな2人に、予想もできないほどの過酷な運命が襲いかかる。
こうした物語の全体は、日本版『セカコイ』と基本的には変わらない。だが大きく異なるのは、日本版が時系列を組み替えて、先の展開を事前に見せることで、ある意味『メメント』(2000年)のように観客に謎を提示し、作品全体を一種のミステリーとしても成立させているのに対し、韓国版は時系列順に物語を描いているという点だ。
実際に存在する病気をファンタジーとして恋愛の物語に利用することへの倫理的な課題については、別に議論が必要になるだろうが、日本版はそうした設定をミステリーとして扱うことで、その設定を物語に十分活かしていたといえよう。観客は、あたかも自分が記憶を失ったヒロインであるかのように、“分からない”という境遇を追体験する。この趣向があることで、ヒロインへの共感性や、彼女の境遇への理解を高めていくのである。
対して韓国版は、時系列に出来事を描くことによって、登場人物たちの境遇をより群像的に描いている。これによって冒頭での設定の複雑さがなくなって、状況が分かりやすくなっている。病気のことや、それが治る予感があるといった情報が冒頭で提示され、やや設定の説明の渋滞が起こっていた日本版と比べると、非常にシンプルで物語に入っていきやすい。
いわば日本版は、冒頭の伏線が回収されることで感動を深める“後追い型”であり、韓国版は“先行逃げ切り型”のスタイルをとったと言えそうだ。とくに導入を分かりやすくするといった韓国版の試みは、劇場作品だった日本版とは異なり、視聴時間を確保するために途中離脱を防ごうとするNetflixの方向性にも合致しているといえる。
とはいえ、ミステリーという枠組みを失った韓国版が、青春映画としての情緒という要素に大部分頼らざるを得ず、作品としての骨格が弱まっていることは確かではある。これは、“それぞれの良さがある”などといった、よくある見解を述べるには、大きすぎる問題といえるのではないか。では、なぜ韓国版がそういった序盤に仕掛けるミステリー要素を排除したのだろうか。その答えは、作品の外に存在する。






















