菅田将暉×竹内涼真×間宮祥太朗×岡山天音は秋ドラマ主演に 躍進続ける『帝一の國』俳優陣

ここ10数年間、若手俳優の登竜門的作品といえば、やはり『仮面ライダー』と『スーパー戦隊』シリーズであろう。だがもちろん、それは単なる入口にすぎず、頭角をあらわした後になんらかの作品で勢いをつけて大きく飛躍する必要がある。
たとえば『仮面ライダーフォーゼ』(テレビ朝日系)の福士蒼汰のように“朝ドラ”であったり、吉沢亮のようにティーン向けの青春映画であったりと、パターンはさまざまだが、もっとも目立つのは“若手オールスター”と呼ばれるタイプの作品であろうか。『仮面ライダーカブト』(テレビ朝日系)の水嶋ヒロが『花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜』(フジテレビ系)、『仮面ライダー電王』(テレビ朝日系)の佐藤健が『ROOKIES』(TBS系)に向かったように、世代の近い若手俳優たちがしのぎを削り合い、後々彼らが大成することで作品の再評価へとつながる。
2010年代に『仮面ライダー』『スーパー戦隊』で世に出てきた出世頭を中心に、若手俳優たちが一堂に介した映画『帝一の國』も、“若手オールスター”にふさわしく、映画公開から2〜3年もしないうちに公開時以上の付加価値が生まれていた。以前も当記事と同じように出演俳優たちの活躍ぶりを振り返ったことがあるが(『帝一の國』は結果的に“オールスター映画”に 菅田将暉、竹内涼真、永野芽郁らにもたらしたもの)、ちょうど彼らが連ドラを席巻している2025年秋クールは、2度目の定点観測には絶好のタイミングといえよう(ちなみに、『帝一の國』でメガホンを取った永井聡監督も、現在『爆弾』が大ヒット中である)。
そもそも『帝一の國』は、古屋兎丸の同名コミックを原作にした学園コメディの類である。総理大臣を輩出する超エリート高校で、最も総理大臣に近付けるとされる“生徒会長”の座をめぐって野心的な生徒たちが熾烈な生徒会長戦バトルを繰り広げていくというストーリーだ。先に例示した『仮面ライダー』『スーパー戦隊』で“アクション”ができることを証明した若手俳優に次に求められるのは、演技力、というよりも“表現力”と、作品を掌握できるだけの埋もれない個性を持ちあわせているか。
菅田将暉

そういった意味で、主人公の赤場帝一を演じていた菅田将暉は、主人公という役割をまっとうし、個性の面ではきちんと勝利を収めているといえよう。もっとも、菅田の場合は『仮面ライダーW』(テレビ朝日系)から『帝一の國』までの6年ほどの期間で、多種多様な作品で存在感を発揮しているのだから当然かもしれない。『何者』のように等身大の若者を演じることも、『明烏 あけがらす』のようにナンセンスなコメディもこなせることも、『溺れるナイフ』のようにエキセントリックな役柄も似合うことも証明済であった。
よくよく考えてみれば、菅田にとって『帝一の國』は、国内メジャー映画での単独初主演作であったはずだ。そこで持ち合わせているキャラクター性をすべて注ぎ込んで、より強烈なものに変えるスキルを発揮したとなれば、その後の飛躍ぶりも納得せずにはいられない。現在放送されている『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(フジテレビ系)でもまた、喜劇俳優としての素養を試されながら、今度は世代も性別も異なる20数名の一線級の俳優たちを率いているのだからさすがである。
同作ではシェイクスピアに傾倒し、場末のストリップ劇場でシェイクスピア演劇をやろうとする久部という青年を演じている菅田。やたらと野心的でありながらも、どこか向こう見ずで頼りない感じは、帝一を彷彿とさせる。いや、むしろ“久部”というネーミングは『マクベス』から取られており、マクベスはまさにそのような人物として描かれていたはずだ。ちょうど今回共演している神木隆之介とお笑い芸人役をやっていた『コントが始まる』(日本テレビ系)でも、彼らのトリオ名は「マクベス」だったことを考えれば、“マクベス的キャラクター”がよく似合うのかもしれない。
竹内涼真

一方、『仮面ライダードライブ』(テレビ朝日系)で注目を集めた竹内涼真の場合は、NHK連続テレビ小説『ひよっこ』での大ブレイクの前に『帝一の國』をステップとしていた。いまでは『君と世界が終わる日に』(日本テレビ×Hulu)シリーズという代表作を得ている竹内だが、『帝一の國』で演じた大鷹弾のようにスポーティーで爽やかな、程よく人懐こくて人たらしな感じのパブリックイメージを保ちつづけて10年近く。現在放送中の『じゃあ、あんたが作ってみろよ』(TBS系)では、そのイメージを逆手にとって、痛快な笑いへと昇華させる。
体育会系な感じが仕事では好印象に見える一方で、その内面にはネット上で“さす九”と揶揄されるような家父長制的な価値観が定着しており、いわゆるモラハラ気質。それで恋人に振られたことを契機にアップデートしていく物語であり、初めのほうは“男性が料理をする”ことでドラマを成立させる古臭さを冠ずにはいられなかったが、それを忘れさせるだけの説得力。むしろこれは、先述のイメージが定着している竹内だから成立するドラマといっても過言ではない。






















