ギレルモ・デル・トロは何を描こうとした? 『フランケンシュタイン』に込めたメッセージ

ついに、あのギレルモ・デル・トロ監督が、ホラー作品の代名詞である、『フランケンシュタイン』を手がけた。ホラー界のなかで「ドラキュラ」に並ぶ有名な存在を、作家メアリー・シェリーの原作に基本的に沿いながら、本格的に描くのである。
『フランケンシュタイン』といえば、ボリス・カーロフが演じた1931年版や、その続編の『フランケンシュタインの花嫁』(1935年)のユニバーサル製作映画が最も有名であり、後世の人々は、その映画を観ていないとしても、ここで登場した象徴的なビジュアルを、さまざまな作品を通して「フランケンシュタイン」として認知している。
そうやって、原作のテーマとは関係なく、象徴化、キャラクター化したフランケンシュタインを、物語の側に引き戻した映画が、ケネス・ブラナー監督の『フランケンシュタイン』(1994年)だった。原題で「メアリー・シェリーのフランケンシュタイン」と謳ったように、原作のストーリーに回帰したのである。
この作品により、まだ10代の女性が、この怪奇小説を通し、人間の死と生命をめぐる重いテーマに取り組んでいたという意外な事実が、より広く伝えられたといえる。そんな彼女自身の物語を、女性の自立という文脈のもとで描く、エル・ファニング主演映画『メアリーの総て』(2017年)も撮られた。
とはいえ、ケネス・ブラナー版は、「メアリー・シェリー」の名を出しながらも、よりエモーショナルでショッキングな展開を採用し、「フランケンシュタイン」という題材が持っていたポテンシャルを引き出す選択をした。しかしそのことで、シェリーが想定していた「怪物」の孤独や絶望といったテーマは、やや後景に追いやられたように思える。
その意味において、デル・トロ版である本作『フランケンシュタイン』は、より原作者のオリジナルに近づいた内容となっている。だが、「怪物」の描き方については、やはりギレルモ・デル・トロらしい、“異形の存在”への共感が色濃く、とくに終盤の描写によって、テーマ自体も彼自身のものに置き直されている。それでは、いったい監督は、この映画で何を描こうとしていたのか。ここでは、作品に織り込まれたメッセージについて考えてみたい。
※本記事では、『フランケンシュタイン』のストーリー展開を明かしています
人間の死体を繋ぎ合わせ、新たな生命を生み出す……。それは、生命や人間をかたちづくるのは神だとする聖書の教えへの冒涜であることはもちろんだが、たとえ宗教から離れたとしても、生命や人権に対して重大な倫理的問題をはらむ行為であるといえる。現在の社会では、主にこの種の問題はクローン技術などで語られている。
デル・トロ監督は、ホラー映画的な文脈から、そういった反倫理的な取り組みを恐怖演出として、まずはアプローチする。実験のため脊椎を露出させた、下顎のない正座の姿勢をとった死体に電極を繋ぎ、絶叫させるといった趣向は、その不気味さの醸成といった点から見事だといえよう。
とはいえ監督は、この危険な研究を進める主人公ヴィクター・フランケンシュタイン(オスカー・アイザック)の倫理的逸脱への批判的視点を絶えず忘れていない。彼が生み出すことになる「怪物」(ジェイコブ・エロルディ)の知性をヴィクターは認めず、苛立ちから虐待を何度もおこなったあげく、人間扱いするどころか、失敗作だとして殺害しようとするのだ。そこに一片のためらいがあったとしても。
そんな「怪物」にシンパシーをおぼえ、交流することに喜びをおぼえるのが、ヴィクターの弟ウィリアム(フェリックス・カマラー)の婚約者で、研究の出資者ハーランダー(クリストフ・ヴァルツ)の姪である、エリザベス(ミア・ゴス)である。メアリー・シェリーを幾分イメージしたと考えられる彼女は、進歩的な考えを持ち、戦争を例にとった話をして、ヴィクターの研究への情熱に釘を刺す。
崇高な精神に基づいているといわれる戦争の本質が、戦場で無惨な死という結果を生み出し、戦地に行くこともない権力者の身勝手な考えの犠牲になっていると力説するエリザベスにとって、「怪物」はそんな勝手な考えから生み出された被害者であり、同情すべき存在として、その目に映ったことだろう。そしていつしか「怪物」は、タイプは異なれど自分の理想や利益のために動く周囲の男たちへの失望から、彼女を救う象徴となっていったようだ。

























