核戦争の恐怖を人間の弱さを描くことで暗示 『ハウス・オブ・ダイナマイト』が示す恐怖

一見するとリアルなアメリカの国防を描いた本作だが、実際には不可解な部分もある。ロシア向け、中国向け、北朝鮮向けといった“想定された脅威別”プランが用意されるのが通常であり、これを選択して発動するのが現実的なパッケージの運用だ。しかし本作では、何者がミサイルを発射したのか分からない状況。誰から攻撃されているかも判然としないのに、いったいどこを攻撃しようというのか。
もし、この状況下で反撃しようとすれば、そのターゲットは“勘”で絞らざるを得ないだろう。それが間違っていたらどうするのか。それとも、全ての懸念される核保有国を攻撃しようと言うのだろうか。そのような発射施設を片っ端から叩くようなパッケージは、戦略的にも政治的にも非現実的だといえよう。ただし、攻撃オプションを連続的に発動することで、3国全てを叩くことは、理論上可能ではある。
だがこれでは、疑心暗鬼のなかで完全に常軌を失った、人類史上稀に見る“ならず者国家”に、アメリカは堕してしまうだろう。そもそも、政府の要人も軍の司令官も、ミサイルを目視できていないのである。可能性としては低いかもしれないが、ハッカーがアメリカやロシアなどの軍のシステムに同時に侵入して混乱させようとする、愉快犯の線も残されている。これに焦って攻撃を始めれば、集団妄想によって核戦争が勃発するという、最も愚かなシナリオで“人類の終末”が訪れてしまう。
日本人をはじめ、本作を観ている“非アメリカ人”にとって、このような事態は、本当に迷惑な話だと感じられるはずである。アメリカの大都市の消滅と市民の死が軽いなんてことはあるはずもないが、そのために世界を全面核戦争に巻き込むなんてことは、あってはならないのだ。どんなに被害が拡大しようとも、絶対に反撃してほしくない。とはいえ、いま自国の都市が破壊されているときに、その国に反撃能力やオプションが残されているのならば、やぶれかぶれで“それ”を選ぶことは、十分考えられる。つまり、そんな状況があり得ること自体が、世界にとって恐ろしい脅威なのである。
まさにここで、この作品のタイトルの意味が浮かび上がる。「ハウス・オブ・ダイナマイト」とは、人類が自ら地球規模で設計した、「安全保障」という名の、危険な爆薬倉庫だったのである。ここでは核の世界を、“銃社会のメタファー”としても想定しているはずだ。個人の防衛のためという理由でアメリカに銃が蔓延し、それが銃撃事件の原因となっているのと同様、核兵器の存在そのものが暴発のリスクであるという構造的な矛盾を浮き彫りにする。この映画の怖さは、そこを直接批判せず、淡々と結果だけを見せてくるところではないか。
そうなると、「どこかの原子力潜水艦の艦長がヤケになって撃ったんじゃないか」という、劇中のジョークめいた発言は、恐ろしいほどリアルだ。ここでは理論的な核抑止論が崩壊し、もはや個人の情緒が世界の命運を握るという、バカバカしいとしか言えない状況になっている。核ミサイルが無数にあるのだから、誰かが何らかの理由で、とち狂って撃つ可能性というのは増大している。自暴自棄になった集団が世界を巻き添えに心中することもできる。こういった愚かしい構図を俯瞰し、コメディとして描いた映画が、スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』(1964年)だった。
本作で印象的なのは、政治家、軍人、官僚などが、いち早く情報をキャッチして、対応に追われるなかで、合間を縫って家族に電話をするところだ。 そこで避難を指示したり、愛情を伝えるなど、きわめて人間的な行動をする。人間は大事な人との関係を重要視しているので、当然といえば当然。だが、そこに観客として共感しながらも、悠長な行動にも感じてしまうのが正直なところだ。
世界が核の炎に包まれるかもしれない局面において、そこに少なからず影響を与えられる立場の者たちが、メソメソと家族に電話をしている。核攻撃をせよと主張するタカ派の国防長官ですら、自分の家族が死にゆく事情に涙ぐみ、自暴自棄な行動に出る。ゴンザレス少佐(アンソニー・ラモス)は、プレッシャーや被害の大きさに耐えられず嘔吐する。ここで示されるのは、“人間というのはどうしようもなく弱い”ということ。そしてそれが、彼らが人間であるが故に大量破壊兵器などというものをはじめから扱うべきではなかったという、そもそもの真実を映し出している。
核戦争の恐怖を、ビグロー監督は爆発や閃光としてではなく、人間の弱さを描くことで暗示する。この演出は、彼女が人間の感情と制度の関係を描いてきた作家であることを示しているといえよう。大きな責任を負った大統領ですら、世界の終わりの瞬間、愛する者のことを考えてしまう。そういった人間性こそが、逆に世界を滅ぼすこともある。この逆説的な美しさ、恐ろしさを、ビグロー監督は表現するのだ。また、そこでロバート・デ・ニーロ主演の政治スリラードラマ『ゼロデイ』で見事な手腕を見せた、脚本家ノア・オッペンハイムの視点がそこに活かされてもいるはずだ。
とはいえ、本作に不満をおぼえる部分もある。このような核の世界を批判的に表現してみせるビグロー監督にグローバルな視点がないわけでは、もちろんないだろう。だが、あくまで本作は、世界の脅威を題材にしながら、アメリカの国防や、アメリカ人の価値観にとどまっていることも確かなのだ。前述したように、本作で描かれる核攻撃の葛藤は、非アメリカ人からすると、迷惑この上ないものなのだ。
知られているように、アメリカ国民の政治的立場は、近年大きく分断されている。そんな状況下において彼女は、分断された市民の両側が許容できるバランスに作品を仕上げているように感じられる。それがアメリカ映画としての強さでもあるのだが、そういった時代性を反映したバランスが、歴史やグローバル感覚という、縦軸、横軸といった大きな枠組みのなかで、果たして“中道”といえる位置にあるかというと、答えは否であろう。
本作における穏健派は、全面核戦争への阻止を大統領にはたらきかけながらも、制度上強い態度を取ることはできない。そこは、本作が描いたように、大統領に権限が委ねられているのだから仕方ない部分ではある。とはいえ本作は、そこで『クリムゾン・タイド』のようなパワフルな打開や、『博士の異常な愛情』のような強烈なシニシズムにも転ばない。こういった点が、右派からも左派からも、キャスリン・ビグロー監督がつつかれる理由であるかもしれない。だが、そんな監督の位置どりそのものを俯瞰したとき、再び本作が示す恐怖が、いまの時代の状況とともに立体的に浮かび上がってくるのも確かなのである。
■配信情報
Netflix映画『ハウス・オブ・ダイナマイト』
Netflixにて配信中
出演:イドリス・エルバ、レベッカ・ファーガソン、ガブリエル・バッソ、ジャレッド・ハリス、トレイシー・レッツ、アンソニー・ラモス、モーゼス・イングラム、ジョナ・ハウアー=キング、グレタ・リー、ジェイソン・クラーク
監督:キャスリン・ビグロー
脚本:ノア・オッペンハイム



























