『名もなき者』はディランの“成熟”をどう描いたのか? “個人”的な音楽と大衆化との葛藤

大衆《フォーク》の象徴から魂の解放へ──『名もなき者』が描くディランの葛藤と成熟
小さい頃、毎週末のように通っていたダイナーがある。ずいぶん前に閉業してしまったが、ルート66沿いのオールドスタイルなダイナーをモチーフにしたこのお店で、バンダナを巻いたマスターがカクテルシェイカーを振る姿が今も鮮明に眼の裏に浮かぶ。そしてアメリカの田舎(カントリー)をイメージしたダイナーらしく、そこではずっと同じフォークロック・シンガーの音楽が流れ続けていた。
『名もなき者』はティモシー・シャラメ演じるボブ・ディランの半生を描く自伝的映画だ。惜しくも受賞は逃したものの、アカデミー賞には作品賞や音響賞をはじめ、8つの賞にノミネートされた。物語は1961年からの4年間でディランがフォークシンガーとして人気の絶頂に上りつめていく姿を描く。
だが、この映画の本題はそこにはなく、原作小説のタイトル『Dylan Goes Electric!』が示唆するように、彼が多くの反発を受けながらもフォークから離れてロックを志向し、ファンたちに貼りつけられた”代弁者”としてのイメージから自身を解放するに至るまでの流れが描かれている。
動乱の1960年代とフォーク、そしてディラン

本作は1961年にディランが病床に伏すウディ・ガスリーを訪ねるシーンから幕を上げる。1961年といえば冷戦対立が最も危険な様相を見せていた時期だ。米ソ首脳会談が決裂し、30年にわたる分断を象徴するベルリンの壁が築かれた。作中でも描かれるように、翌年にはキューバ危機が発生し、東西核戦争の危機は史上最大規模まで高まった。その影響もあって左翼思想への警戒感は依然として強く、世論は割れていた。市民権運動もこの時代に最も大きく展開され、1963年のワシントン大行進ではキング牧師が20万人の前で演説台に立った。動乱の時代だった。
そんな時代にディランは20代を迎え、フォークシンガーとしての活動を始めた。ロマン派や象徴主義の文脈を汲んだ歌を書いていた彼は次第に政治的な主張を歌詞に落とし込んでいくようになる。彼がクラブで「戦争の親玉」を歌い終え、「厳しい時代だよ、愛せる誰かを見つけな」と言ってステージを去るシーンが思い出される。これぞまさしくフォークの力、とディランの歌は少しずつ反戦歌として支持されるようになり、彼の歌はアメリカ中に広がっていく。プロテストソングが大半を占める3枚目のアルバム『時代は変る』のヒットをもって彼は時の人となるが、やがてディランはファンたちからめいめい勝手に押しつけられるイメージや責任に嫌気が差し始める。
そうして次第に彼はフォークのスタイルを脱していく。当時大流行を見せていたロックンロールに心酔し、アコースティックギターの代わりにエレキギターを持ってステージに立つことが増える。これは反体制的フォークシンガーとしてのディランを好んでいた多くのファンの反感を買うことになる。映画のクライマックスでは1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでのディランの演奏が描かれる。観客も運営委員会もディランの伝統的で反体制的なメッセージに満ちたフォークの演奏を期待していたが、その期待に反して、彼はすさまじいブーイングにもかかわらずロック色の強い曲をバックバンドと共に数曲演奏する。最後は友人でもあるピート・シーガーらの請願に折れて王道フォークの「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」をアコギで弾き語ってステージを降りる。観客の態度は一変、彼に賞賛の歓声を上げている。このときのディラン(ティモシー・シャラメ)の曇った表情が今も印象に残っている。
ディランの音楽的成熟

エンドロールでも触れられるように、ディランはその後ロックミュージシャンを演奏に起用した『追憶のハイウェイ61』をリリースし、従来のフォークからほとんど完全に離脱する。それに象徴されるように、彼は自身が背負わせられていたものを取り払い、自分自身の解放を達成するのだ。以降はフォークロックシンガーとしてさらに人気を高めていくが、この映画はその転換期における周囲からの反響と、彼が経験したアンビバレントな感情を描ききっている。
ディランは彼が経験した数々の苦悩にも拘わらず、フォークを捨てても、音楽活動から離れもせずに進化し続けた。ガスリーらから自身のルーツでもあるフォークを、奇妙なチューニングでギターを弾くブラウニー・マギーらからブルースを、反骨精神に溢れた典型的なバンドマンのジョニー・キャッシュらからロックを学ぶなど、ディランは地方の伝統的な音楽からブリティッシュ・インヴェイジョンのロックンロールまで幅広く聴き、コラボレートし、自身のスタイルに取り入れた。それは彼自身の詩的・思想的な変化を表現するものだったが、聴く者からすればそれ以上に当時最も求められていた文化的融和を象徴する音楽だった。彼自身がいくら自身の関心は個人的なものにあると強調しても、その事実は否定しようがない。
この音楽的な進化を通して、彼は歌詞の詩性と多様で変化に富んだ音楽性を両立させた天才的フォークロックアーティストとしての成熟を迎える。これによりさらに人気を博し、アイコン化されていった彼はしかし、この成熟は大衆へ向けて抵抗や平等を説くかつてのスタイルからは離れた、ごく個人的なものであると強調し続けた。よく彼の最高傑作として言及される『追憶のハイウェイ61』や『血の轍』が彼自身の内面の葛藤や不満、それから愛にまつわる苦しみを描いていることからもその思想が見て取れる。





















