石原裕次郎×渡哲也×松田優作は今観ても最高にカッコいい! ドラマ史に刻まれた『大都会II』

ドラマ史に刻まれた『大都会 PARTII』

 1970年代の日本テレビでは、刑事ドラマ、アクションドラマが数多く放送されたが、特に石原プロがテレビドラマ制作に乗り出した『大都会』シリーズは、その後にテレビ朝日の『西部警察』(1979年)へと発展したエポック的存在である。

 シリーズ第1作『大都会 -闘いの日々-』(1976年)は、暴力団を追う刑事と事件記者を主軸にした渋めの人間ドラマ。第2作『大都会 PARTII』(1977年)は銃撃戦とカーアクションを強化し、第3作『大都会 PARTIII』(1978年)はその派手さをよりパワーアップさせている。この度、“石原裕次郎生誕90周年記念特別企画”と銘打って、ホームドラマチャンネルで石原プロ制作の名作ドラマが一挙放送されることになった。もちろん『大都会』シリーズ3作品もラインナップに加わっている。

 『大都会 PARTII』は、倉本聰が脚本を手がけた第1作『闘いの日々』の犯罪者と刑事双方の人間ドラマと、『PARTIII』で開花する迫力あるアクションがバランス良く盛り付けられ、松田優作演じる徳吉刑事のとぼけたキャラクター性も加わって、とても娯楽性の高い作品だ。『大都会』シリーズの作風の推移には面白い裏話があり、番組企画者の岡田晋吉が著書にその経緯を記している。『闘いの日々』はレギュラーを暴力団担当の刑事にしたことから視聴者との接点が作りづらく、倉本聰の良質な脚本を得ながらも高視聴率を取れなかった。それを気にしていたのか、石原裕次郎は「うちもテレビドラマの作り方は覚えたから、今度は視聴率を取りに行こうよ」と岡田に話し、シリーズ2作目は松田優作を加えてガラリと方針を変えた娯楽性の高い内容にしたのだ。『大都会 PARTII』は派手なアクションが売り物になり、視聴率は常時20%を超え、最終回は30%に迫ったという。岡田は著書の中で、『大都会』シリーズを『西部警察』としてテレビ朝日に譲ってしまったのは勿体なかったと回想している(※)。

 さて、その松田優作のレギュラー入りに関してもいろいろなことが絡んでいた。前述の岡田晋吉の著書から『大都会 PARTII』の製作背景を紐解こう。1976年に起こした暴力事件の影響で松田優作はどこのテレビ局からも声がかからなくなった。しかしその事件の時に、裕次郎は「松田は才能ある役者で、前途有望な若者ですので……」と便宜を図ってもらうよう警察に陳情するほど彼を目にかけていた。だがテレビ各局は、もしも優作がトラブルを起こすと番組そのものが危ないため、リスク回避で起用したがらない。岡田は仕事がなくなった優作を何とかしてあげたい一心で、『大都会』の渡哲也に相談に行った。岡田の心情を汲んだ渡が「分かりました、私が面倒を見ます。奴にはもう暴力を振るわせません」と言ってくれたことと、優作が渡を尊敬していたことを知っていた岡田は、『大都会 PARTII』の現場に優作を預けることにしたのだ。

 日本テレビ系の刑事ドラマ『太陽にほえろ!』と『俺たちの勲章』、そして『大都会 -闘いの日々-』のゲスト出演を経て、三度の刑事役でレギュラー出演した長身を活かしたアクションと、二枚目半のユーモアが醸し出すギャップで印象に残るエピソードも多数だ。のちに角川映画『蘇える金狼』でも共演することになる風吹ジュンのゲスト回、第41話「野良犬の恋歌」の徳吉の悲恋や、犯罪者に協力させられた徳吉がパトカー強奪をする第37話「銀行ギャング徳吉」などは、優作の持ち味が活かされた名編としてお薦めだ。

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