河合優実主演『ナミビアの砂漠』の強烈なオリジナリティ 山中瑶子監督による“決意の一石”

『ナミビアの砂漠』が圧倒的に力強い理由

 『バービー』(2023年)、『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020年)、『82年生まれ、キム・ジヨン』(2020年)など、近年至るところで、差別的な環境に生きる女性が主体的な生き方を模索する姿を力強く描く映画が製作されている。そんななか、圧倒的に個性的でありながら、これらの作品に並ぶほどの衝撃を放つ作品が、日本からも出現することとなった。それが、山中瑶子監督、河合優実主演の『ナミビアの砂漠』である。

 その軽やかながら、凄まじい強度を併せ持った内容は話題を呼び、映画館で満席の回が続くなどの活況をもたらした。心が撃ち抜かれたり、ワイルドな道を歩む主人公に共感したという観客の声も後を絶たない。しかしそれでもなお、この映画は十分に評価されているとはいえないのかもしれない。なぜなら本作『ナミビアの砂漠』は、社会における変革の過渡期といえる、この時代のカルチャーを代表する一作になったり、世界の映画の潮流に影響を及ぼすことになり得る可能性をも備えているからだ。そして、そんな作品が日本から出てきたという事実に、驚きを禁じ得ない。

 河合優実が演じる21歳の主人公カナは、従来の多くの映画における女性主人公とは一線を画す、規格外のキャラクターだ。日々にゆとりを求める“丁寧な暮らし”も、周囲の人々に助けられる“しなやかな生き方”ができるほどの余裕もなく、人生に迷いながら東京の郊外で“生存”する人物だ。少なくとも表面上、優しく気遣ってくれる彼氏ホンダ(寛一郎)が存在しているものの、友人をダシにした嘘までついて、より魅力的に映る男ハヤシ(金子大地)に会いに走るという、およそ感心できない行動を見せることで、彼女は観客を初っ端より動揺させる。

 さらにカナは、ハヤシと同棲する約束を取り付けると、これまで同棲していたホンダが出勤している時間に、何の断りもなく引っ越すという所業をおこなうのである。夜逃げ、いや昼逃げのように自分の荷物を部屋から運び出し、共同で使っていただろう冷蔵庫をも新居へと持っていくところは、鬼のようにすら感じられる。そこまでして新生活を始めたカナだったが、ハヤシとの仲にも次第に亀裂が入り、些細な言い争いから殴りかかるようなケンカにまで発展するといった毎日を送ることとなる。

 非常に好戦的で狡猾な主人公に見えるが、このように荒々しい気性を持って、つい手が出てしまう女性の生き方が、生きづらさを感じさせながらも一種の清々しさを観客に与えたり、新鮮な女性像をもたらすように見えるといった構図は、成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演映画『あらくれ』(1957年)に繋がる、古い時代ともリンクするような普遍的な感覚がある。そう思えば本作は、オリジナルストーリーによる現代版『あらくれ』として観ることもできるだろう。

 高峰秀子が当時、進歩的で活動的な女性像を代表し、『あらくれ』もまたその一環としての作品だったように、もちろん山中監督は主人公カナを、常軌を逸した人物や、鬼として描こうとしているわけではない。ストーリーを通して見れば、カナは問題を起こそうとして起こしているのではなく、あくまで自分の欲望だったり感情に素直に、そして“主体的に”動こうとしていたことが分かってくる。自分のやりたいことを押し通そうとして、それが結果的に、傍目からは“ヤバい行動”になる場合があるということなのだ。

 では、この映画のなかで、果たしてカナばかりが“ヤバい行動”をしているのだろうか。例えば、カナに捨てられることになるホンダが、出張先の札幌で「風俗」に行ったという話が劇中に出てくる。すでにホンダから心が離れているカナにとって、その事実自体は大きなショックではないのだが、彼の女性に対する無神経な言動や、“遊び”だと考えているからこそ懺悔して“誠実さ”をアピールしてみせる態度は、冒頭で「ノーパンしゃぶしゃぶ」の話題を大声で話していた男たちや、無遠慮で差別的なスカウトの男と同様に、カナに嫌悪感をおぼえさせることとなる。

 そこに思い至れば、だからこそカナは、ホンダに対して必要以上に冷淡な態度をとることができたのだということも、理解できてくるのではないか。男性が「風俗」に行くという行為は、ことに日本においてそれほど奇異なものとして語られることはなく、TV番組でお笑い芸人が楽しそうに「風俗」体験をネタにして、お茶の間の視聴者に届けるケースがあったことは、多くの日本人が知るところである。だからこそホンダも話のオチとして「勃たなかった」、「不快だった」と、ユーモアに還元しようとするフシがある。カナにとってホンダの裏切りには興味はないのだろうが、むしろ生身の女性が関係していることをそのようにホンダが扱ったことに、むしろ怒りを感じたということなのではないか。

 本作において、それでもカナの行動に代表される、女性の側の行動が極端なものに感じられ、それがあたかも“新たな女性像”だと認知されてしまうというのは、男女の社会的な位置付けへのバイアスが存在するということなのだろう。山中監督がここで暴き出しているのは、そんな不平等な環境であり、それを決して受け入れようとしない女性の生き方なのだと考えられる。

 このカナの苛立ちは、“ある過去”を持っているハヤシや、不誠実な商売をしていると感じている自分の職場などにも向けられる。そしてカウンセリングのシーンによって明かされるように、そういった感情の根っこにあるのは、彼女が父親から受けたというネガティブな出来事にあるようだ。何となくその内容は想像はできるが、それが女性をモノのように扱ったり、騙そうとすることに対して、カナが烈火のような怒りを見せる要因の一つになっているのだろう。

 カナの口が悪くなり、拳を振るうという態度は、傍目から見れば異常なものに映り、社会に不適合な人物だと感じられるかもしれない。実際、彼女は次第に、社会から脱落していっているように見える。だが劇中で彼女が、「お前の方がおかしいもんなあ!」と悪態をつくように、むしろ冷静な態度で社会に順応しているように見せながら、同時に他人を軽視したり騙したりすることができる側の方が、より“ヤバい奴”なのではないかということを示唆している。社会では往々にして、そういうタイプの人間が成功してしまいがちでもある。

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