『バーナデット』は忙しい人にそっと寄り添う一作 大自然で見つけた新たな“自分らしさ”

『バーナデット』は心にそっと寄り添う一作

 忙しい日々のなかで、自分は何者なのか、なにがしたいのかを忘れてしまうことはないだろうか。あるいは、そんなことを考える暇すらないかもしれない。ふと立ち止まって考えてみると、これまで自分が成し遂げたこと、今まさに成し遂げようとしていること、そして将来なにを成し遂げられるのか、ぼんやりとした不安が煙のように渦巻き、視界を悪くさせるかもしれない。そんな思いを抱く女性が「自分らしさ」を再発見する冒険を描いたのが、リチャード・リンクレイター監督による『バーナデット ママは行方不明』だ。

 シアトルに暮らす専業主婦のバーナデット(ケイト・ブランシェット)は、娘のビー(エマ・ネルソン)を心から愛し、親友のような関係を築いている。一方で人嫌いな彼女は、隣人やママ友とうまくやっていくことができない。実は若いころには天才建築家として将来を嘱望された彼女だったが、いくつかの挫折と結婚・妊娠が重なり、仕事をやめて主婦業に専念することにした過去があった。自分のクリエイティビティを封印し、“普通の”生活を送っていた彼女は、ある事件をきっかけに我慢の限界に達し、家族旅行を予定していた南極へ1人旅立つ。

 『バーナデット』でブランシェットが演じるのは、人付き合いが苦手で、少々突飛な行動もするが、“普通の”専業主婦だ。本作は2019年に制作されたものの、日本での公開は2023年となった。この年、主演を務めたケイト・ブランシェットは、世界トップの女性指揮者の栄光と転落を描く『TAR/ター』(2023年)で強烈なカリスマを演じ、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされるなど、脚光を浴びた。日本では同じタイミングでこの2作が公開されることになったわけだが、そのキャラクターは対照的だ。

 芸術家としての才能がありながら、家族のためにキャリアを捨てたバーナデット。一方、『TAR/ター』の主人公リディア・ターは、圧倒的な存在感でベルリン・フィル初の女性首席指揮者となり、キャリアの頂点にいる。この2つのキャラクターはどちらも芸術家ではあるが、キャリアか家庭か、現代社会では女性としてどちらかしか選べないと言われている2つの道の正反対を選んだ2人だ。圧倒的なカリスマと、少し浮世離れしているが“普通の”主婦。そのどちらも見事にリアリティをもって演じるケイト・ブランシェットの演技の巧みさにも目を奪われる。

 バーナデットはキャリア面でいくつか挫折を経験し、やっと産まれてきた娘のために、主婦業、いや母親業に専念することを選んだ。もちろんこれは彼女にとって前向きな決断で、誰かに強要されたわけでもない。しかし娘のことを思うあまり、そのほかの社会とのつながりが疎かになってしまっていた。夫エルジー(ビリー・クラダップ)との関係も、お互いに愛し合っているのは確かなのに、どこか落ち着かないものに変化する。母と娘の強固な絆と、不安定な夫婦の関係。バーナデットは娘ビーの存在に支えられ、助けられると同時に、彼女を支え、助けることに自分の存在価値を見出していた。しかし子離れのときは必ず訪れる。ビーと彼女の関係が揺らぐことはないが、成長した子どもはいつか親の手を離れていくものだ。その第一歩が目の前に迫ったことも、バーナデットが不安定になっていった原因の1つだろう。

 バーナデットがすべてを捧げて育てた娘のビーは、聡明で優しい少女に育った。それは彼女の愛が娘にしっかりと伝わっていたからだ。ティーンエイジャーになったビーは、母と親友のような関係になり、彼女の失踪後も母の無事を信じて探しつづける。

 『6歳のボクが、大人になるまで』(2014年)などでも知られるリチャード・リンクレイター監督は、親子の関係を描くことを得意としている。本作でも、バーナデットとビーの関係は揺らぐことのない強固な絆として描かれ、物語の重要な要素として機能している。

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