リドリー・スコット監督による“革命”と“映画の真骨頂” 『ナポレオン』の真価を紐解く

『ナポレオン』の真価を紐解く

 2023年の映画業界で、とくに存在感を示したApple。シリーズ作品などにしか、なかなか膨大な製作費をかけられないような業界の状況が続くなかで、マーティン・スコセッシ監督の『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』、そしてリドリー・スコット監督の『ナポレオン』という、巨匠監督による重要な意味のある大作を送り出しているのである。そんな急激に存在感を増していくAppleスタジオによる『ナポレオン』は、ヨーロッパを戦乱の渦に巻き込み、軍人から「フランス皇帝」にのし上がったナポレオン・ボナパルトの人生を追った歴史大作だ。

 ナポレオンといえば、長期熟成させたブランデーの呼称にも用いられるほどのカリスマ的支配者で、フランス軍を連戦連勝に導いた英雄的軍人だという見方が定着してきた。映画においては、アベル・ガンス監督によるサイレント期に撮られた大スケールのフランス映画『ナポレオン』(1927年)が、情感を込めて彼の活躍を描いている。

 しかし、本作はナポレオンの偉業を讃えるわけでも、フランスの歴史の壮麗さを表現するわけでもない。ここでは、2023年版の本作『ナポレオン』について何が描かれていたのか、そしてその真価を紐解いていきたい。

 ナポレオンを題材にしたといえば、『征服』(1937年)というアメリカ映画も存在する。ナポレオンがポーランド貴族で人妻であった女性マリア・ヴァレフスカに好意を持ち、不倫を持ちかけ愛人にしようと執着する姿がクローズアップされる作品だ。横暴な独裁者としての面が強調された、欲望に燃え盛る征服者、女性を我がものにしようとする卑俗な人物としての面をとらえる姿勢というのは、他国の作品だからこそ可能になる場合がある。

 とくに近年は、“有害な男らしさ”からの脱却だったり、弱者に寄り添うという視点を持つことが、多くの表現者にとっての共通認識になってきたところがある。イギリス出身の監督によるアメリカ映画である本作ならば、そういった冷めた目でシニカルに、この“英雄”を新鮮に描写することができるというものだ。こういう、“熱狂”や慣習から遠いところにある歴史ものこそ、より興味深い内容になり得るといえるのではないか。

 とはいえ、本作はナポレオンを徹頭徹尾最低な人間だとして描いているわけでもない。当時の時代背景からすれば、戦争に明け暮れて愛人を囲っていた彼の倫理観は、突飛なものではなかった。それを示しているのが、フランス革命によるマリー・アントワネットの斬首シーンに民衆が狂喜するシーンであろう。国庫を浪費する腐りきった権力の打倒が市民によって果たされた瞬間とはいえ、その現場をリアルな映像で見ると、血塗られた地獄絵図としか言いようがない。斬首刑を主導した、革命家マクシミリアン・ロベスピエール(サム・トラウトン)が、自らも断頭台に立つことになってしまった経緯を含め、まさに暴力や狂気が渦巻いていた時代なのである。

 ホアキン・フェニックス演じるナポレオンは、この狂乱とは対照的に物憂げな表情を見せる。しかしこれは、後の描写から類推すると、ナポレオンが暴力を嫌っているという描写ではないはずだ。彼は曲がりなりにも貴族という立場であり、自分の社会的存在をかたちづくる権力の打倒には複雑な思いがあったという見方なのだと考えられる。だからこそ、弱小貴族でありながら後年、家柄や血筋、地位にこだわるようになる考えだ。しかしここでの王権の崩壊は、ナポレオンにとって好機でもあった。彼は「トゥーロン攻囲戦」において、「フランス王党派」に与するイギリス、スペインの軍に勝利したことで、政治の混乱のなかで一躍して軍の英雄となっていくのである。

 この攻囲戦におけるナポレオンを、本作はそれなりに勇壮に描いている。指揮官自ら砦に乗り込み、部下とともに積極的に戦いに参加するのだ。ただしホアキン・フェニックスは、英雄とは程遠い演技で、コミカルなほどに息荒く緊張している姿を見せてもいる。これは、ことさらナポレオンをバカにしているというよりは、まだ20代の青年が戦争に臨んだ際のリアルな表現だといえるだろう。そこには、やはり彼を人間ばなれした英雄としては決して扱わないという意志が読み取れる。

 しかし、軍事クーデターを起こして国家権力を手中にする場面は、まさに茶番劇のように演出され、自らフランス皇帝に即位する戴冠式では、権力に酔った彼をグロテスクにすら描いてもいる。暴力を用いて軍事独裁政権を樹立していく歴史の過程を評価すれば、それもむべなるかなと思えるところだ。前述した映画『征服』で、「フランス皇帝」などという立場がタチの悪い冗談だと登場人物に語らせたように、皇帝を僭称するナポレオンの暴挙は誇大妄想的であるといえよう。しかし、武力があればそんなバカバカしい無理が通ってしまうというのが、歴史の事実でもある。

 それでは、ナポレオンがただただ不遜な執政者であったと本作は主張しているかというと、やはりそういうわけでもないだろう。ナポレオンがロシア遠征に失敗し、多数の戦死者を出して失脚した後、王政復古がおこなわれ、ルイ18世(イアン・マクニース)が新たな統治者となった経緯を本作は描いているが、ここでルイ18世をとんでもなく愚鈍な人物として表現しているのである。

 ナポレオンは確かに度を越した地位を欲したといえるが、それでは家柄の良い人物が統治者に相応しいかというと、それはそれで別問題だということが、そこでは示されている。そもそも家柄や血筋の高貴さというのも、ナポレオンがそうしたように、単に“作られた”ものでしかない。長年に渡って権力が継続されてきたからといって、それを持った人物の人格を保証してくれるわけではないことを、ここでは強調しているのだと考えられる。

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