リドリー・スコット監督による“革命”と“映画の真骨頂” 『ナポレオン』の真価を紐解く
一方で、ナポレオンの女性に対する仕打ちには厳しい目が向けられている。正妻ジョゼフィーヌ(ヴァネッサ・カービー)は、ナポレオンに輪をかけたような、奔放で大胆な傑物として描かれるが、それでも当時の社会背景により、夫の意向に全て従わざるを得ない状況に追い込まれるのである。子どもができないという理由で、衆人のなか面罵され暴力を振るわれるなど、「フランス皇后」としての面目などあったものではない。本作は『征服』同様に、このような女性を従属させようとする支配欲が、戦争を好む性質と根底で繋がっていることを示唆している。
クライマックスとなる、有名な「ワーテルローの戦い」は、戦争シーン最大の見どころとなる。ここで、イギリス・オランダ連合軍を率いる、イギリスのウェリントン公爵(ルパート・エヴェレット)が、むしろ英雄に近い描き方がなされているところは笑える点ではないだろうか。
ウェリントン公の指揮によって、銃を持った歩兵たちの方陣が敷かれ、苦戦するフランス軍の側面をプロイセン軍が衝くことで敗走を余儀なくされたナポレオンは、ここで命運が尽きることになる。戦争に勝ち、戦術を成功させることこそが、国家にとってのナポレオンの存在意義だったことを考えれば、彼はここで完膚なきまでに敗北を喫したといえるのだ。ナポレオンの横暴や増上慢は、あくまで結果を出し続けることで成立していたからだ。
ナポレオンの最期の地となるセントヘレナ島で、「ロシアの地を焼いたのは誰だと思う?」と、現地の子どもたちに威張ろうとする彼に、「ロシアが自ら都市を焼いたのでしょ」と、“歴史修正”を糾すシーンがあるのは痛快だ。本作のラストでは、一説として知られている暗殺疑惑を示唆しているが、このシークエンスで完全に過去の遺物となったナポレオンの命が尽きるのは、映画的な論理性が全うされているといえるだろう。
そして字幕により、ナポレオンの指揮した戦争における戦死者数が表示される。戦勝の記録ではなく、“戦死者数の記録”である。確かに、戦争の数と戦績を見れば、歴史上類を見ないほどの勝利を成し遂げているナポレオンだが、あえてここではそれを功績と解釈する余地を与えようとはしない。戦争をするということは、勝つにしろ負けるにしろ、多くの戦死者、犠牲者が生まれるということに他ならない。国家の単位でなく、グローバルな視点から見れば、なおさら戦争は愚の骨頂でしかないといえるだろう。戦争の申し子といえるナポレオンという人物は、その意味においてはフランス含め、ヨーロッパや周辺諸国の命を脅かした人物と評価されることとなる。
「歴史を描いた作品を、現在の倫理観で裁くなどナンセンスだ」という意見がある。一見すると正しいように感じられるが、映画をはじめとする創作物の多くは、常に“現在の”、そして“未来の”受け手に対して提供されていることを忘れてはならない。ナポレオンがそうしてきたように、いつでも強い者が正しく、力を持った者が優遇されるという世界を、映画はいま脱し始めている過程だといえる。そう考えれば、本作の表現もまた、一つの「革命」であるのだ。新しい視点を用いて議論を喚起させたり、新しい時代の人の心を打つ作品をつくりあげる……それこそが、現代を生きるクリエイターの重要な役割の一つだといえよう。
一方で本作は、「これぞ映画の真骨頂」とでもいうような、狂おしいほどに蠱惑的な場面も用意されている。それが、ナポレオン率いるフランス軍に対してロシアが焦土作戦を用いた流れが描かれた部分だ。打ち捨てられた巨大な廃墟、そして当時のフランス軍が目の当たりにしただろう、地獄のように燃えていく無人の都市の光景……。それはフェデリコ・フェリーニ監督や、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督などの、古い時代への恐怖を退廃美に転化させた歴史映画に通じるものがある。と同時に、その次の段階を表現したものだと感じられるのである。このような規模の映画で、狂気や退廃の極地を味わうことができるというのは、現在ではきわめて稀だといえる。このような点においては、むしろ過去の時代の素晴らしさを意識させられるのである。
■公開情報
『ナポレオン』
全国公開中
監督:リドリー・スコット
脚本:デヴィッド・スカルパ
出演:ホアキン・フェニックス、ヴァネッサ・カービー、タハール・ラヒム
配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
公式サイト:www.napoleon-movie.jp