『呪術廻戦』虎杖悠仁にとって“大人”であり続けた七海建人 その存在の意味深さを考える

『呪術廻戦』七海建人の存在が大切な理由

 渋谷の街も、虎杖悠仁の心も、もうめちゃくちゃだ。アニメ『呪術廻戦』第41話「霹靂-弐-」では、伏黒恵が召喚した式神・魔虚羅と宿儺の戦闘に巻き込まれ、多くの人が命を落とした。オープンタイプの領域展開を繰り広げた宿儺。狗巻棘のおかげで建物内に避難していた人々も、一瞬にして術式の対象として切り刻まれた。有機物も無機物も関係なく、ただそこからなくなってしまうほどのインパクトのある技。それを表現する上で多くのアニメーターが参加した第41話は、2020年代以降のアニメシーンを語る上で欠かせない回となった。

『呪術廻戦』

 宿儺がつくづく“呪いの王”だと感じるのは、いつも誰かにとっての“最悪”を堪能するからだ。彼が犯した殺人行為を、器である虎杖悠仁は追体験する。それを“知っていて”あそこまでの大罪を犯し、虎杖に背負わせる宿儺。その動機が虎杖の心を壊すことなのだから、本当にタチが悪い。「人を助けろ」という祖父の遺言を受けた彼は、物語の主人公として誰かを救う立場にいると本人でさえ当たり前に思っていた。それなのに、結果的には彼の存在(正確にいえば、彼が宿儺の器になったという選択)によって大勢の人が救われるどころか殺されている。虎杖は自分のせい、と自責の念に押しつぶされそうになる一方で「行かなきゃ」「このままじゃ俺はただの人殺しだ」と戦いの場に向かおうとする。そんな極限の精神状態にいる彼に必要な存在は、“ナナミン”なのだ。

 七海建人は虎杖に限らず、釘崎野薔薇や伏黒にとっても「大人」でい続けてくれる存在だ。初登場したのは、真人が絡んでいた映画館での事件を調査したとき。五条悟に代わり、虎杖の先生として残穢の見方などテクニカル面での指導をしていた。しかし、彼はもう一つ大切なことを虎杖に教え続けている。それは、彼が“子供”であることだ。

 七海ははっきりと、大人である自分と子供である虎杖(そして他の高専生)の線引きをする。映画館の屋上で呪霊と戦闘した際、“守られるべき”存在つまり子供扱いされて不満な虎杖に対し、彼は大人に“なってしまうこと”とは何なのか説いた。

「君はいくつか死線を越えてきた、でもそれで大人になったわけじゃない。枕元の抜け毛が増えていたり、お気に入りの総菜パンがコンビニから姿を消したり。そういう小さな絶望の積み重ねが、人を大人にするのです」

 このエピソードが収録された「幼魚と逆罰」という章タイトルは、「卵からかえって少し成長した魚が神仏に理不尽なことを願ったことで、かえって罰を受ける」ことを意味している。言い換えてみれば、「子供の犯した罪と報い」の章なのだ。この回で登場する“子供”は、吉野順平と虎杖である。つまりこのタイトルは吉野の身に起きた出来事の顛末を象徴すると同時に、無理やり改造人間と対峙させられたことで、初めての殺人を体験し救えない命に対する無力さを実感した虎杖のことにも触れているように感じるのだ。そしてこの章で大切だったのは、その責任の所在は決して彼ら(子供)にないことを説く大人(七海)の存在である。

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