2022年のアメリカ映画で最も挑発的な1本 『TAR/ター』は無限に解釈を拡げ続ける

『TAR/ター』は無限に解釈を拡げ続ける

 リディア・ター。ベルリン・フィルの首席指揮者にしてエミー賞、グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞の4冠“EGOT”を達成した史上15人目の天才。ジュリアード音楽院で教鞭を執る、当代随一の音楽家。そんな彼女にスキャンダルが発覚する。かつて彼女の指導を受けていた若手指揮者クリスタ・テイラーが自殺。ターからポジンションと引き換えに性的強要を受けていたと遺族が告発したのだ。

 『TAR/ター』のシノプシスを聞いて色めき立ち、インターネットで“リディア・ター”と検索したのは筆者だけではないだろう。彼女は監督トッド・フィールドと、主演ケイト・ブランシェットのコラボレーションが生んだ架空の人物。ターの言葉を借りれば、醜聞目当てにググる卑しい我々はSNSに心まで侵された“ロボット”だ。ターは森羅万象を統べるかのようにタクトを振るい、霊感とも言うべき聴覚を持って万物に耳をそばだてる。彼女を前にした者は誰もがすくみ、しかし強烈な磁力に引き寄せられずにはいられない。序盤、ターは教壇に立つジュリアード音楽院で「人種、性的マイノリティである自分にとって、白人の女性蔑視者であるバッハに興味がない」と言う学生を完膚なきまでに論破する。

 『TAR/ター』は2022年のアメリカ映画で最も挑発的な1本だ。筆者はここでアレックス・ガーランド監督のTVシリーズ『DEVS/デヴス』のとあるセリフを思い出した。「お前たちの世代は何もわかっちゃいないのに、すべてが政治的で、それをwokeだとか言っている。だけど、歴史や芸術や音楽のことを何も知らないから、結局のところ政治のことも何もわかっちゃいない。それはwokeじゃなくてcomaって言うんだよ」。

 トッド・フィールドのストーリーテリングは謎めいていて、どこに向かうのかわからない不気味な緊張感が張り詰めている。曇天の凍てついたベルリンの風景はロマン・ポランスキーやミヒャエル・ハネケ、シャンタル・アケルマンらヨーロッパの巨匠の傑作群をかすめていく。ターは自宅と楽団のあるこの街でマーラーの交響曲第5番の収録と新作の作曲に挑むが、時同じくして不審なメールが届き、やがて彼女の耳には不快なノイズが聞こえ始める(緻密な音響設計はぜひ音の良い劇場で体感してもらいたい)。彼女を苛む雑音とは何か? 私たちはSNS上に飛び交う言葉を伝って誰かと何かを罰することに熱を上げてきたが、ここではターと“顔のない”クリスタ・テイラーの間に何があったのかは描かれない。フィールドは映画の舞台にベルリンの地を選び、「告発されたら有罪も同じ」と戦後の非ナチ化裁判まで引き合いに出して、通俗のモラルにターを裁かせようとはしない。

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