『ザ・ホエール』と『白鯨』の相似点を読む 人生に価値を与えるための打倒すべき“使命”
一方『ザ・ホエール』では、娘エリーが父親に対して激しい怒りを燃やしていることがわかる。彼女にとって、まだ幼い子どもだった自分を捨てて別の人物との恋愛に走ったチャーリーは許せない存在であり、決して消えない傷をつけた存在であった。なぜ父親は自分を捨てたのか? 私は価値のない人間なのか? そうした疑問を抱きながら、彼女は怒りに満ちた17歳になった。エリーはチャーリーを憎み、何百回となく「なぜ父親は自分を捨てたのか?」と問いつづけている。まるで、片足を失ったエイハブ船長が白鯨に怒りを燃やし、白鯨を倒さなければ自分の人生は無意味だと信じたように、エリーは自分を捨てた父親を憎み、いかに打倒できるかを考えつづけているようなふしがある。長らく疎遠になっていた父親との正面対決は、まるで白鯨を追い詰めたエイハブ船長のような激しさがあった。鯨(父親)によって、一生に渡って消えない傷をつけられた者。そう考えてみれば、272kgの巨体でどっしりとソファに構えるチャーリーは、娘からすれば大きな鯨のような存在なのかもしれない。
死を直前にして、チャーリーは「自分はこれまでにひとつでも正しいことができたのだろうか」と問い直すこととなる。せめて死ぬ前に、自分の娘に「君はすばらしい、君には価値がある」と伝えたい。そうした切実な想いがスクリーンからあふれでる後半には、深い感動が待っている。何より、この薄暗い部屋で会話を繰り広げる5人の人物、全員が迫真の演技で相手とぶつかる様子が胸を打つのだ。元となる戯曲のすばらしさもあるだろうけれど、その脚本を血の通った演技として観客へ提示した俳優陣もまたみごとである。わけても、主人公がピザを食べるシーンを、これほどに怖いと感じたことはなかった。そんな彼を気遣う人々との関係性は美しい。「人は、なぜか他人を気にかけてしまうんだよ。人のことをまったく気遣わずに生きるなんてできない」と語るチャーリーは、つい思わず他人に優しくしてしまう人間の善良さ、相手を想うあたたかさに感動しているようにも見える。『ザ・ホエール』には、成熟した人間ドラマがあるのだ。たったひとつの小さなアパートのなかから、これほどに奥行きのある物語が生まれるものだろうか。
■公開情報
『ザ・ホエール』
TOHOシネマズ シャンテほかにて全国公開中
出演:ブレンダン・フレイザー、セイディー・シンク、ホン・チャウ、タイ・シンプキンス、サマンサ・モートン
監督:ダーレン・アロノフスキー
原案・脚本:サム・D・ハンター
提供:木下グループ
配給:キノフィルムズ
2022年/アメリカ/英語/117分/カラー/5.1ch/スタンダード/原題:The Whale/字幕翻訳:松浦美奈/PG12
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