『チェンソーマン』に感じたアニメ作品の未来 “生活”を丁寧に描くことで示した可能性

 『チェンソーマン』第1話の冒頭、窓から差し込む光によって、部屋に舞っている埃が照らされている。序盤からカメラの存在を意識させるショットの連続に、これはレンズを通して観ている風景だと視聴者は思う。原作の漫画にあったコマとコマの間の余白、そして、意識のその先に駆け抜けていく線の躍動は、カメラの存在によってゆっくり引き伸ばされていく。ここにあるのは「生活」だ。それは第12話でサムライソードに戦う理由を問われた主人公のデンジが「この生活を守るため」と、わざわざ原作にないセリフで答えることからも明らかである。『チェンソーマン』を映像化するにあたり、制作陣は本作の主題が「生活」にあるとして、それを効果的に描くために2次元空間である漫画の世界にカメラを持ち込むことを決めたのだろう。その判断は大いに正しい。では、このカメラを通して描かれる「生活」とはなにか? それは「食事」である。『チェンソーマン』はデンジと「食事」を巡る物語だ。

『チェンソーマン』第1話「犬とチェンソー」予告 / CHAINSAW MAN Preview

 第1話のタイトル「犬とチェンソー」は、ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』(1968年)の中の短編のひとつ「少年と犬」からの引用だろう。1975年に映画化もされた『少年と犬』は第四次世界大戦後の荒れ果てた世界を舞台に、テレパシーで喋る犬と少年が「女」を求めて荒野を彷徨う物語だ。物語の中盤で主人公の少年は荒野から「地下都市」へ行くことになるのだが、そこはかつての文明の名残はあるのものの、顔を白塗りにした(社会風刺にしては直球すぎる)人々が支配する全体主義国家であった。女性を性行為の道具として求め続けてきた主人公は、皮肉にも地下都市の繁栄のために精子を搾取されるだけの道具にされてしまう。その後、なんとか地下都市を脱出した主人公は、自分を罠にかけた女性を殺し、犬と一緒にその死体を食べる。

 『少年と犬』における「食事」と「セックス」のイメージは『チェンソーマン』にも引き継がれている。主人公デンジが序盤で掲げている「パンにジャムを塗って食べたい」や「胸を触る」という目標は、それぞれ食欲と性欲の発露に思えるが、短い回想とセリフから伺えるデンジと親の関係性、義務教育を受けておらず、早い段階から大人に利用される立場になってしまった彼の失われた子供時代を考えれば、「胸を触る」という行為もまた、母親からの授乳を待つ赤ん坊として、「食事」の延長線上にある行為なのだろう。第5話でマキマが自身の胸を触らせる前にデンジの指を噛んだのも、本作において「食事」と「セックス」のイメージが近いことを示唆している。

『チェンソーマン』第8話「銃声」予告 / CHAINSAW MAN Preview

 『チェンソーマン』ではバトルシーンも「食事」の延長線上にある暴力として描かれている。必殺技もなければ、強さを競う大会も開催されず、強さの指標になるのは「数字」ではなく、より恐れられている「名前」という抽象的なもので、これらはすべて『週刊少年ジャンプ』作品のマナーに反している。この非ジャンプマナーの徹底により、本作のバトルシーンにあるのは戦いの興奮ではなく、暴力の虚しさである。第8話において「舌がバカだと幸福度が下がる」と、デンジたちの「食事」に介入してきたサムライソードは、そこにいる全員を銃で殺害しようとする。作品全体を通して、生活の描写を丁寧に積み上げてきたからこそ、突然命を奪われる銃社会の恐ろしさが浮き彫りになり、デンジやアキが倒そうとしている「銃の悪魔」がいかに手強い敵なのかがわかる。なぜなら「銃の悪魔」を倒したところでこの世界から銃そのものが消えることもなければ、様々な利権が絡み合った上に成り立つ銃社会のシステムが消えることもない。だからこそ、そんな世界の仕組みに無自覚がゆえに「ドカンと頑張れば大丈V(ブイ)でしょ!」と「銃の悪魔」を倒すと言い切ってしまうデンジの姿には胸を打たれてしまう。そこには社会を変革できるかもしれないという希望があり、銃で人が死なない世界を一瞬でも夢見ることができるからだ。

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