『チェンソーマン』最終回で描かれた“ハッピーエンド” 成長したデンジが身につけた想像力
アニメ『チェンソーマン』もついに最終話「日本刀VSチェンソー」が放送された。おそらく今期最も世間から注目されたアニメは第1期の幕を閉じる。
『チェンソーマン』第12話「日本刀VSチェンソー」予告&先行カット 最後の戦いが始まる
テレビ東京系ほかにて放送中のTVアニメ『チェンソーマン』第12話の予告映像と先行カットが公開された。 『少年ジャンプ+』…
※本稿にはアニメ『チェンソーマン』第12話までのネタバレが記載されています。
放送開始から各話によってテンポが違ったため、どこまで映像化されるか話題になっていた『チェンソーマン』は、サムライソードと沢渡アカネとの戦いに決着をつける「サムライソード編」までとなった。しかし、お約束のように続編を匂わす演出も。エンドロールのキャスト部分にも記載があり、配信で観るとすでに字幕に名前が登場している新キャラクターが出てきたわけだが、それは後述しよう。
サムライソード(配信字幕では“モミアゲ”とされている)とデンジのファイナルバトルは、ある意味で第1話からのテーマを振り返るようなものになった。第1話でデンジのことを犬のように従わせていたヤクザのおじさんが、欲に駆られてゾンビの悪魔と契約し、ゾンビになってしまった。そして「デビルハンターが嫌いだから」という理由で、デンジはゾンビの悪魔に使役されたヤクザに体を細切れにされてしまう。かなり理不尽極まりない初回だったが、その時のことを掘り返され、「じいさんがゾンビになっていたから殺した」と事実を言えば、「学歴がない奴はすぐそうやって嘘をつく」「お前に人の心は残っていないのか」なんて言われる始末。デンジからすれば、献身的に仕事をしてきた雇い主に特に理由なく突然殺されたのだ。そしてその彼ではなく、ゾンビの悪魔を“デビルハンター”として退治するという当然のことをしたまでで、「人の心はないのか」云々どころではない。
デンジは幼少期から孤独で、自分に倫理観を教えて育ててくれる大人が周りにいなかった。そのため、最初から共感性に関してはやや欠けている。しかし、本人がそれを自認していて、なおかつ公安に入り、いろんな人と出会ったことで、彼は「自分がわからないことを理解しているからこそ、わかろうとする」姿勢を常に見せ続けてきたのだ。パワーがニャーコを奪われたときも、最初はピンとこなくて、報酬(胸)につられて助けることにするも「俺にもポチタがいて……」と話すシーンでは、「自分は猫のためにそこまでしない→しかし、自分にとってパワーの猫とは何か→ポチタ→自分もポチタのためなら何でもするから、その気持ちが理解できる」という思想のメカニズムが働いていることがわかる。姫野が死んだ時も、泣くアキに対して、自分は泣くこともできないが「アキはバディを亡くしたんだもんな」と早い段階から彼の気持ちを理解してあげることができた。
つまるところ共感性とは“想像力”だ。「自分も同じ考えだ」ではなく、例え違っていても相手の気持ちを「そうだな」と感じ、寄り添うことである。デンジのように自分ではなく「アキなら」と相手を主体にし、彼の立場に立って気持ちを想像できたからこそ“共感”することができた。
こう振り返ると、デンジはこの第12話の中でかなり人間的な成長を遂げている。だからこそ、逆にサムライソードの共感性の乏しさが目立ってしまう。学歴がない=バカとか、自分のおじいちゃんは優しかったとか(女子供も少ししか殺していないとか言っているけど、いや殺しているじゃん!)、全て自分主体なのだ。デンジと比べてより良い環境……衣食住も教育も“一般的な”環境で育ってきたのに、サムライソードがデンジよりも実は倫理観に欠けているのがわかる。アニメで語られたデンジの物語は、こんなふうに人を分かった気になって判断したり、見下したり、ラベルを貼るだけ貼って自分のことを省みない大人たちへの逆襲から始まり、逆襲にて一旦閉幕となったのだ。デンジが実際に多くを学んできたのに対し、彼よりも何かを知っているつもりだった私たちが、逆に彼にインスパイアされた部分も多かったのではないだろうか。そこが『チェンソーマン』の大きな魅力の一つであると、私は考える。