『雨を告げる漂流団地』が描く具体と抽象の境界 夏芽が漂流世界で得た“漂う”という感覚
漂流世界の冒険がもたらす「漂う」という感覚
物語の序盤に、航祐と夏芽は、団地とともに漂流世界へと飛ばされる。そして、物語の中盤を通じて、漂流世界が持つ性質が徐々に解き明かされていく。
漂流世界に漂っているのは、航祐や夏芽たちのいる団地だけではない。他にも実世界で既に取り壊され、無きものとなっている建物や施設が同様に漂流しているのである。
こうした状況から、漂流世界は、実世界には既にその姿かたちを保ち得なくなった事物が、目に見える形で存在を維持し続けている世界として捉えることができる。
つまり、本来であれば抽象的で不可視の領域を可視化し、実体の伴う具体的な事物で構築された世界として見せているのが、本作の漂流世界ではないだろうか。漂流世界は「具体と抽象」の境界であり、その移行の場なのである。
先ほど「実体がなく目には見えないものの存在にアクセスできるようになることが『抽象的な思考の次元への適応』の重要な側面のひとつ」であると指摘した。
これらを掛け合わせると、本作が漂流世界を介して、子どもたちにどんな成長を求めているのかが見えてくる。
それは、目に見える、あるいは手で触れられるものと目には見えない、手では触れられないものを切り離すことである。
夏芽は、目の前に見えている事物に固執し、物理的な空間としての団地から離れられず、次第に自分はここに残るなんて発言をするようになる。
彼女は団地という建物とそこに付随する思い出や幸せ、愛情を同一視しており、それらを切り離すことができていない。物理的に団地に留まることだけが、それらを失わないための唯一の方法だと考えている。
だからこそ、彼らの物語に必要なのは「バイバイ」である。
物語の果てに、彼らは、とりわけ夏芽は、別れを選択することになるのだが、別れは喪失とイコールではない。目に見える形での実体を失ったとしても、そこに息づく思い出や記憶が消えることはない。そこで感じた愛情が消えることもないのである。
人間が永遠に生きられないように、建物が永遠にその形をとどめることができないように、どんなに大切なものにも、いつかは別れを告げなければならない。
しかし、目には見えなくなることは、消えて無くなることではない。目には見えなくなっただけで、私たちの心の中を「漂い」続けている。
これは、秋川雅史のヒット曲「千の風になって」あるいはその原典「Do not stand at my grave and weep」の世界観にも似ているだろうか。
重要なのは、お墓という具体的で目に見える事物ではなく、風になって「漂う」、目には見えないものたちであるということをこの歌(詩)は述べている。
漂流世界での冒険を通じて、少年少女が獲得したのは、そんな「漂う」という感覚である。
バイバイが「また会うためのおまじない」であることを知って、彼らはまた少し大人に近づいていく。
■配信・公開情報
『雨を告げる漂流団地』
Netflixにて全世界独占配信中
全国公開中
出演:田村睦心、瀬戸麻沙美、村瀬歩、山下大輝、小林由美子、水瀬いのり、花澤香菜、島田敏、水樹奈々
監督:石田祐康
脚本:森ハヤシ、石田祐康
音楽:阿部海太郎
主題歌・挿入歌:ずっと真夜中でいいのに。
企画:ツインエンジン
制作:スタジオコロリド
配給:ツインエンジン/ギグリーボックス
製作:コロリド・ツインエンジンパートナーズ
©コロリド・ツインエンジンパートナーズ
公式サイト: https://www.hyoryu-danchi.com/
公式Twitter:https://twitter.com/Hyoryu_Danchi