『雨を告げる漂流団地』が描く具体と抽象の境界 夏芽が漂流世界で得た“漂う”という感覚
アニメ映画『雨を告げる漂流団地』が9月16日に全国の劇場で公開され、それと同時にNetflixでの配信がスタートした。
本作は『泣きたい私は猫をかぶる』などを制作した気鋭のスタジオコロリドが制作したオリジナルアニメーションであり、『ペンギン・ハイウェイ』の石田祐康が監督を務めている。
「子ども×漂流」は、古くは『十五少年漂流記』、日本では『漂流教室』、そして近年で言うと『Sonny Boy』など、多くの作品で用いられた普遍的な題材と言える。
そんな既に手垢のついた題材を用いて作られた『雨を告げる漂流団地』は、石田祐康監督が「漂流」という言葉を新しい視点で捉えなおそうと試みた作品ではないだろうか。
今回のコラムでは、本作が「小学6年生の少年少女」を主人公に据えた点に着目しながら、本作が描こうとした「漂流」ないし「漂う」ことの意味を考えてみたい。
なぜ、小学6年生の少年少女が主人公だったのか?
子どもの発達過程で見える傾向のひとつに「10歳の壁(あるいは9歳の壁)」と呼ばれるものがある。小学校高学年にあたるこの時期が、心身が子どもから大人へと切り替わるタイミングであることからそう呼ばれている。
文部科学省も「子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題」と呼ばれる資料をホームページに掲載しているが、その中で、小学校高学年の発達課題として「抽象的な思考の次元への適応」というものを挙げている。
例えば、小学校低学年の子どもたちは算数の計算を「みかんが3つ、りんごが4つ」というように自分の目に見える具体的な事物を用いて行う。しかし、高学年になると、「文字と式」のような抽象的な操作を求められる単元を学習する。
別の例を挙げると、目の前の友だちとの関係だけにフォーカスをしているのが小学校低学年までの子どもたちであり、そこから「友情」という抽象的で目には見えない概念を理解できるようになるのが小学校高学年の子どもたちということになる。
『雨を告げる漂流団地』の中で漂流を経験する子どもたちは、小学6年生であり、年齢で言えば11歳あるいは12歳である。まさしく小学校高学年の子どもたちなのだ。
登場人物はそれぞれに葛藤を抱えているが、物語の中心にあるのは、熊谷航祐(以下、航祐)と兎内夏芽(以下、夏芽)の関係性であり、とりわけ夏芽の葛藤だろう。それは今回の漂流の現象のトリガーになったのが、彼女の感情であることからも明らかである。
夏芽の葛藤は、自分に家族の温かさを教えてくれた熊谷安次(安じい)との思い出の詰まった団地が壊されてしまうことへの不安により生じている。
夏芽は団地という空間が場所として維持されている間は、その思い出が残り続けていると何の疑いもなく信じることができていた。しかし、それが取り壊されるとなったときに、思い出や安じいからもらった愛情までもが失われ、触れられなくなってしまうのではないかと危惧しているのだ。
ここに小学校高学年の子どもたちが乗り越えるべき「壁」が垣間見える。彼女は団地という目に見える具体的事物に固執している。だからこそ、団地が失われてしまうことが、思い出や安じいからもらった愛情の喪失とイコールで結ばれてしまう。
そんな彼女に求められている成長は、まさしく「抽象的な思考の次元への適応」ではないだろうか。
抽象的という言葉は「単に概念的に思考されるだけで、実際の形態・内容を持たないさま(existing as an idea, feeling, or quality, not as a material object)」とも定義される。
また、細谷功の著書『具体と抽象:世界が変わって見える知性のしくみ』(dZERO)では、次のように述べられている。
ここでの「具体と抽象」というのは、「目に見えるもの(こと)と目に見えないもの(こと)」「表層的事象と本質」といった言葉にも置き換えられます。
(細谷功『具体と抽象: 世界が変わって見える知性のしくみ』dZERO)
つまり、実体がなく目には見えないものの存在にアクセスできるようになることが「抽象的な思考の次元への適応」の重要な側面のひとつなのである。
そして、これが本作で描かれた少年少女、とりわけ夏芽にとっての成長のゴールとして設定されているわけだ。
『雨を告げる漂流団地』が、小学6年生の子どもたちをメインキャラクターに据えたのは、小学校高学年の時期が有する具体的思考から抽象的思考への過渡期という特性が、彼らの成長譚にマッチするものであるからと言えるだろう。