Netflix『呪詛』から考える“信じる心”の危うさ 安易にお勧めできない呪いの一作

『呪詛』から考える“信じる心”の危うさ

ルオナンの最悪の選択と後味の悪さ

 ルオナンの最終選択は、呪いの元凶となった土着信仰を受け入れ、その呪いを広めることだ。

 土着信仰の禁忌を破り、目の前のことから逃げてきたルオナン。だが、彼女の軽はずみな行動は愚かさからきているのではなく、好奇心や親切心、そして母性だった。観客は、ルオナンに共感し、応援するだろう。そして、呪いをもたらす神である「大黒仏母」や、自らの富を求めるがゆえに恐ろしい神を信仰する人々を否定したくなるだろう。

 だが、観客はずっとルオナンに裏切られていたのだ。これが『呪詛』の恐ろしいところであり、ホラー映画としてずる賢いところでもある。

 観客がホラー映画を楽しめるのは、映画と自分が完全に別世界であると頭で理解しているからだ。ありとあらゆる手法で人を殺す『ファイナル・デスティネーション』シリーズを楽しく鑑賞できるのも、逆さ吊りにされた女性を真っ二つに切断する『テリファー』を痛快だと思えるのも、カニバリズムの兄弟の活躍を描く『クライモリ』シリーズを微笑ましく眺められるのも、全てはそこで起こっていることが画面の向こうであり、自分は安全地帯にいるのがわかっているからだ。

 ところが『呪詛』は、映画の世界と客席の間に存在する「第四の壁」を、いとも簡単に飛び越えてくる。たとえば、冒頭では「信じる力」の実験をしようと観客に語りかける。また、ルオナンが元YouTuberという設定を生かして、スマホを使って撮影したような、視聴者に向かって語りかける映像を定期的に差し込んでくるため、観客はYouTube動画を観ているかのような、親近感を抱く。

 そして迎えるクライマックスでは、観客とルオナンと間に存在するはずの壁が完全に取り払われ、実はこれまでの話はルオナンが視聴者に呪いを広めるために行っていた種明かしがされる。その原動力が娘を救うためだったこととはいえ、見守ってきた観客にとって衝撃だったはずだ。

 「観たことを後悔する」といったコメントが出てくるのも納得だ。というのも、『呪詛』は「信じる心」が何を可能にするのかを散々見せてきた。「大黒仏母」に強力な力を与えたのは強い信仰心だったはずだ。その呪いを解こうと尽力した師匠にも信じる力があった。彼は呪いの存在を信じていたからこそ、結果的に命を落としたのだ。

 私たちも、偶然の重なりに関連性を見つけて運命を感じたり、恐怖したりする。それだって信じる心があるからだろう。

 つまり、『呪詛』がフィクションとはいえ(原作となる事件はあるらしいが)、この作品を観た人が呪われたと信じれば、何かしらの力が及ぶ可能性を孕んでいる。映画は人を呪わないし、殺さない。だが、その作品が人を呪い殺す力を持った映画だと強く信じれば、どうだろう。

 ホラー映画を見慣れている筆者は『呪詛』を怖いとは思わなかった。だが、『呪詛』が秘める可能性には恐怖する。そして、その可能性を否定できないからこそ、安易に観ることはお勧めしない。

■配信情報
『呪詛』
Netflixにて配信中

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる