『17才の帝国』は“めでたしめでたし”だったのか 取り戻すことのできない失われた時間

『17才の帝国』のラストを考える

「失われたものは、取り戻せないんだよ」

 『17才の帝国』(NHK総合)第2話で、商店街の再開発に反対する鈴原(塚本晋也)が、再開発によって失われる街の風景について言った言葉だ。

 この言葉は、全5話という限られた時間の中に「AI」、「SF」、「政治」、「青春」と様々な要素を凝縮した実験的作品である本作において、この物語の登場人物全てに当てはまる、最も重要な言葉ではないか。彼らが「失ったもの」と「得たもの」を振り返ることで、本作が描こうとしたもの、実験都市ウーアとは何だったのか、その輪郭を探ってみたい。

 制作統括に訓覇圭、プロデューサーに『大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ・フジテレビ系)の佐野亜裕美、脚本に『平家物語』の吉田玲子、演出は西村武五郎・桑野智宏という布陣で作られた本作は、終始スリリングに「サンセット・ジャパン」と揶揄される、202X年という近々の未来の日本の姿を描いた。また、神尾楓珠、山田杏奈、河合優実、望月歩というこれからの日本のテレビドラマ・映画界を担っていくことだろう若手俳優たちの輝きと、板挟みである中間管理職ポジションの苦悩を演じきった星野源、染谷将太の円熟、そして彼らの前に立ちはだかる「大いなる壁」柄本明、田中泯の貫禄という三世代の俳優たちの演技の妙を堪能することができる作品でもあった。

 最終話で印象的だったのは、真木(神尾楓珠)が甦らせた、10才で命を落とした幼なじみ・白井雪の成長した姿を反映したAI・スノウ(山田杏奈・2役)による、真木の変化の指摘だ。「純粋で真っ直ぐで揺るがなかった半年前までの真木君」はもういない。その変化は、彼が、実際にウーアの住民たちと関わることで、数字上の「幸福度」やデータだけでは測れない人の幸せや痛みがあることを知ったから生じた。つまり初回において「“経験”は時に人を臆病にさせ人を腐らせる」と言った彼は、その“経験”を経て、自身も変わらずにはいられなかったのだ。

 逆に、平(星野源)は、既に何かを「失ってしまった」人物として描かれた。そして最終話において彼は、その行動をもって、初回において本作が呈示した問い「経験は人を腐敗させるものでしかないのか」に答えを出し、人生の後輩であるところの真木に伝えた。何かを得るたびに大切なものを失ったとしても、失ってしまったなら失ったなりの方法で「青い夢」を見て、それを実践することができるのだと。

 本作は、真木とサチ(山田杏奈)の「青春」パートにおいて、少年少女の成長と変容をきちんと描いた上で、彼ら彼女たちがやがて辿り着く先である、平や、鷲田照(染谷将太)という大人たちの、自らを縛っていたものからの解放と飛躍を描いた。そして、それによって、「何かを得るたびに大切なものを失ってしまう」私たち人間の性に対して、「希望」を見出したのである。

 一方で、永遠に変わらない、変われない存在「スノウ」は、全ての人にとっての「17才」の象徴でもある。「理想」のまま生きたいと願う、純粋で、時に狂暴な、美しい存在。真木曰く「僕の一部」であったスノウが彼の世界からいなくなることは、彼が少年から青年になるために必要な通過儀礼だった。サチの中にあった「黒い渦」も、すぐり(河合優実)が抱き続ける、怒りでどうにかなりそうだった「17才の私」も恐らく同様の何かである。

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