濱口竜介を“声の作家”として読み解く 初期作から『ドライブ・マイ・カー』に至るまで

「自分自身に耳を傾けなかった。だから僕は音を失ってしまった」(※1)

 これは、濱口竜介監督作『ドライブ・マイ・カー』に出てくる台詞の一節なのだが、文字にして抜き出すと、ユニークな印象を受ける。文字としてここだけ抜き出すと、何の話をしているのだろうと思う。聴力を失いつつある人の話かと思う人もいるかもしれない。

 この台詞は、主人公の家福(西島秀俊)が、ドライバーのみさき(三浦透子)の地元、北海道を訪れ、自分と妻の関係を思い起こした時に発せられる。

 『ドライブ・マイ・カー』を観た方ならわかるだろうが、この台詞の「音」とはサウンドのことではなく、家福の妻(霧島れいか)の名前である。映画を観ている時は、妻の名前が「おと」であることを知っていたので、この台詞に特に大きな注意は払わなかった。だが、改めてシナリオで読み直した時、このテキストはなんだか面白いなと思ったのだ。

 と言うのも、濱口竜介監督にとって、音あるいは声は重要なものだと思うからだ。だから、音を失うというのは、主人公にとって妻を失うのが辛いことであると同時に、濱口映画にとって非常につらいことなのでは、というダブルミーニングのようなものが、テキストに向き合って浮かんできたのだ。ちなみに、妻の名前は原作では言及されない。「音」という名前は濱口監督オリジナルのネーミングだ。

 濱口映画は、セリフが多い。上記の引用のように大事な感情を結構セリフでしゃべらせている。人によっては説明過剰ではないかと感じるほどに。

 例えば、「僕は、深く、傷ついていた。気も狂わんばかりに。でも、だから、それを見ないフリをし続けた」と主人公に言わせているが、それはそこまでの展開を見逃さずに観ていれば、多くの人は気が付くはずだ。それでも、濱口監督は言わせる。

 この手の説明過剰さは、しばしば映画において批判の対象となることが多い。しかし、濱口監督は言わせる。それは、台詞を声に出すこと自体に重要な意味があるのではないか。

 台詞は言葉であると同時に音でもある。あるいは、言葉である前に音なのかもしれない。この音と声に対する信頼が濱口映画の特徴を決定づけている。

 濱口竜介を読み解くのは簡単ではない。どの作品もものすごく豊穣で多くの要素を含んでいるので、その全てを文章でつかまえるのは難しい。この記事では、濱口竜介を「声の作家」という視点で紐解いてみることにする。

言葉とからだの随伴性

『ドライブ・マイ・カー』(c)2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 繰り返しになるが、濱口映画は台詞が多い。大抵の作品で、最初から最後までずっとしゃべっている。本人は、自らを「台詞しか書けないタイプの監督、脚本を書く時も台詞からしか発想できない」とポン・ジュノ監督との対談で語っている。実際に、濱口映画は台詞の応酬によって物語が進んでいく。アクションよりも会話が重視されていることは明らかだ。

 例えば、『PASSION』は6人の男女の恋愛模様を描くが、不倫がバレたり、その不倫相手に鉢合わせたりしても殴り合いのような派手なことは起きない。代わりに「本音言い合いゲーム」みたいなものが始まったりする。

 言葉へのこだわりは、濱口監督自身もいろいろなところで語っている。自著『カメラの前で演じること』は濱口監督が自分の言葉で傑作『ハッピーアワー』の制作プロセスを明かしているが、いたるところで言葉へのこだわりが語られる。例えば、以下のように。

「言葉とからだには随伴性がある。少なくとも僕はそのように考えて脚本を考えている。ある言葉を口にするとき、その言葉は何がしかのからだの傾向を引き連れるものだし、あるからだの状態は出てくる言葉を決定しもする。だからこそ、台詞を与えられることは役者にとって非常に強力な『演じる』ことの手がかりである得るのだ」(※2)

 言葉が身体の動きを作ることがあるのだと濱口監督は主張している。そして、その逆に身体の状態が発する言葉を左右するとも言っている。この「言葉とからだの随伴性」が濱口映画の大きな魅力となっているのは間違いない。

 上映時間5時間17分の『ハッピーアワー』は、演技未経験の人々を起用し、数カ月のワークショップを経て撮影された作品だ。そのワークショップで濱口監督たちは、一般的な演技のレッスンはほとんどしなかったと書いている。では何を重視したのかというと、「聞く」ことだったそうだ。

『ハッピーアワー』(c)(c)2015 神戸ワークショップシネマプロジェクト

 なぜ演技において「聞く」ことが重要なのか。「聞く」ということは、別の誰かは「聞かれている」ことになる。聞かれている実感が「いい声」をつくるのだと濱口監督は書いている。(※3)つまり、欲しいのはいい声である。ここで言う「いい声」は単純にきれいな声とは少し違う。濱口監督は、「真偽判定不能な語り(騙り)をスッと信じさせてくれる」声だと表現している。

 濱口監督は、この「いい声」によって映画というフィクションに信ぴょう性を与えているのだろう。フィクションに信ぴょう性を与える「いい声」が多ければ多いほど、映画はもっともらしくなる。だから、濱口映画は台詞が多いのではないか。

 濱口監督が、聞かれることで生じる「いい声」を発見したのは、東北ドキュメンタリー3部作を作った時だという。震災後、『なみのおと』から始まる東北の人々の語りを記録したこのドキュメンタリー映画で、濱口監督はカメラの前で人々が「いい声」で語ることを発見したのだそうだ。その「いい声」をフィクションでも収めたいと『ハッピーアワー』のワークショップで「聞く」ことが重視され、それが濱口監督の演出の指針となっている。(※4)

 『ドライブ・マイ・カー』では、この「聞く」という行為を、死んだ妻のカセットテープの音声を聞く主人公を通して描いている。亡くなって、文字通り音だけの存在になった妻の声を聞く家福が繰り返し描かれるが、このカセットテープの声は作品全体に大きな影響を与え続ける。家福だけでなく、みさきにも何かしらの影響を与えているはずだ。その変化は3時間の長い上映時間の中でつぶさに捉えられている。

 声だけの妻という存在が、濱口監督の声に対するこだわりを見事に具現化していると思う。そして、「聞く」という素朴なテーマが、役者の演技を導く際の濱口監督のそのものであり、それが作中の『ワーニャ叔父さん』の舞台制作のプレセスで可視化され、作品のテーマとも響き合う構造になっている。

 声へのこだわりは、『偶然と想像』でもわかりやすい形で現れる。3つの短編からなるオムニバス形式である同作の2つめのエピソード「扉は開けたままで」では、大学教授を誘惑しようと試みる女子学生が、教授の本を朗読する。教授は自分の本が声に出して読まれたことが気に入り、その録音データをくれと言う。それが教授にとっての悲劇につながる。

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