“世界で戦う作品づくり”の鍵になる? 『マイネーム:偽りと復讐』の高評価が示唆すること

『マイネーム』の高評価が示唆すること

 日本の映画、ドラマは近年、その内容が文化的な特殊性に寄っていたり、こじんまりとした変化球を狙ったり、雑学を学ぶようなものが増えてきて、本シリーズのような分かりやすいストレートな題材は減少傾向にあると感じられる。また、シリアスな題材でも、そこに漫画のようなギャグテイスト、ポップな舞台のような演出をとり入れるなど、日本ならではの独特な呼吸や目配せが成立している場合が少なくない。つまりその分、ある前提を了解しなければ楽しみづらいところがあるといえる。

 それは日本の映像分野における“洗練の結果”ともいえるが、直線的な無骨さを持つ本シリーズのように、一つのドラマで本格的な満足感を味わえるものは珍しくなってきているのではないか。そして、より広い視聴者を楽ませることができるのは、少なくとも現状においては、やはりオーソドックスな本シリーズのようなタイプであろう。

 もちろん、韓国作品にも恋愛ドラマにおけるコメディタッチの“お茶の間”シーンのような、韓国独自の特殊性は存在するし、一部の映画は旧弊な価値観がベースとなっている保守的といえる内容も少なくない。だが、本シリーズや『イカゲーム』がそうであるように、一つひとつのシーンに圧倒的なオリジナリティが存在しないとしても、夾雑物を取り除いたシンプルなスタイルで、一定以上のクオリティの映像を生み出す技術があれば、評価を高めることが可能なのである。

 そう考えると、ほとんど画面を見ないでもストーリーを理解できるように発達したといわれる演出や、バラエティー番組に類似した独特な演出スタイル、既存の人気を基に宣伝を重視したキャスティングなど、芸能界のパワーバランスに依拠し、日本人の視聴者向けに、90年代以降とくに先鋭化してきたドラマの歴史は、ことワールドワイドなステージでは、ほとんど不利な要素にしかならないのではないか。

 それならば、より脚本に重きを置いていた、日本の往年のドラマのスタイルの方が、より好まれやすいということになるだろう。そして、それをいまやっているのが韓国ということになるはずである。だとすれば日本の作品も、少なくとも世界に発信するものに限っては、オーソドックスな意識に回帰する必要が出てくるはずである。

 だが、日本の特殊性の全てがただのノイズになってしまうかといえば、そうとも言い切れないだろう。2010年代にアメリカで原宿ファッションがブームになったように、若い世代がガラパゴス的な感覚で作り上げた文化が、独自の存在感を持って世界をリードした例もあるのだ。そう考えれば、日本のドラマがオリジナリティとしては希薄な『マイネーム:偽りと復讐』を超えることは、じつは容易なのではないだろうか。とはいえ、古くさい価値観がベースとなっている作品の中に、エキセントリックな文化を表面的に配置しただけでは、惨憺たる出来になってしまうことは明らかだ。

 問題は、自分たちの文化の“何を発信していくか”という戦略性や、一種の哲学や美意識を中心に作品づくりができるかということではないか。日本や韓国には、まだまだ保守的で差別的な文化が根付いているように、世界の各国から見て時代に対応できない、そんな部分をポジティブな文脈で表現したものは淘汰されていくことになるだろう。逆に、そういったものをどれだけ排除できるか、または風刺的に描くことができるかが重要で、そこではアジアをアジアの外から俯瞰することのできる国際感覚が必要になるはずである。

 映画のみならず、ドラマにおいても韓国がはるかにリードすることになった状況にある現在、日本は韓国が起こしたブームをどのように利用していくかが、今後のテーマとなっていくだろう。その鍵となってくるのは、“根源的”であること、そして“急進的”な姿勢であり、それを判断する優れた眼を持ち、クリエイター個人のみならず業界や製作体制が、大幅な意識改革を行うことではないのか。

 配信作品がメインストリームに躍り出ることになり、今後は映像分野も世界を相手にすることは避けられなくなってきた。『マイネーム:偽りと復讐』は、そんな状況に様々な気づきを与えることになったドラマ作品でもある。

■配信情報
Netflixシリーズ『マイネーム:偽りと復讐』
Netflixにて独占配信中

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