70年代を中心としたサスペンス映画が現代に蘇る 『ベケット』が映し出す映画史の“記憶”

『ベケット』が映し出す映画史の“記憶”

 現代における“映画”とは何なのか……Netflixで配信中のサスペンススリラー映画『ベケット』は、配信作品でありながら、その根源的な問いを近年のどの映画よりも強く意識させる力を持つ、驚きの作品だ。ここでは、そんな『ベケット』が映し出す映画史の“記憶”と、時代の変遷を踏まえながら、作品の真価について考えてみたい。

 本作は、『TENET テネット』(2020年)のジョン・デヴィッド・ワシントンを主役に据え、『トゥームレイダー ファースト・ミッション』(2018年)のアリシア・ヴィキャンデルが、主人公と一緒にギリシャ観光にやってきた恋人役として出演しているなど、あたかもハリウッド大作のようなキャスティングだが、同時に、よくあるハリウッドの娯楽スリラーとは、全く趣きが異なっている作品でもある。

(c)NETFLIX

 それもそのはずで、その鮮烈さで多くの観客を驚かせた『君の名前で僕を呼んで』(2017年)、『サスペリア』(2018年)を監督したイタリアのルカ・グァダニーノが、彼の映画製作会社とともに本作の製作を務めているのである。監督したのは、この2本でセカンドユニット監督を務めたフェルディナンド・シト・フィロマリーノ。そして『君の名前で僕を呼んで』の劇中曲として過去の楽曲が使用された坂本龍一が、自身もファンだというフィロマリーノ監督の望みによって、全体のスコアを担当している。

 ストーリーは、むしろ単純である。ジョン・デヴィッド・ワシントン演じるアメリカからの旅行者が、旅先で立ち寄ったギリシャの僻地で起こした交通事故をきっかけに、政治的な陰謀に巻き込まれ、命を狙われながらアメリカ大使館を目指して逃亡し続けるという内容だ。しかし、その見せ方が印象的なのだ。ひとことで言うと、70年代を中心としたサスペンス映画が現代に蘇ったような質感で全編が撮られているのである。

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 くすんだ色調や、登場人物のファッション、即興的で感覚的な構図や、主人公の表情をとらえる不自然な前後のカメラの動き(ドリー・イン/アウト)、街並みの撮り方に至るまで、あらゆるものが高いレベルでヴィンテージ風に作り込まれている。劇中に現在の若い俳優たちやスマートフォンなどが登場しなければ、70年代の作品と言われて鑑賞しても、最後まで気づかないかもしれない。

 この映像や演出が醸し出す独特の美しさには、様々な理由がある。その一つは、舞台となる現在のギリシャの経済状況の悪さだ。ギリシャは2009年、保守派からの政権交代が行われたときに、国家の債務が返済不能なまでに膨れ上がっていることが判明し、ヨーロッパ、そして世界を巻き込んだ金融危機が起こった。そのきっかけとなった政権委譲は、本作の政治的なサスペンスの説得力を増すことともなっているが、長年続く国家的な貧困は同時に、首都アテネの中心部ですら無骨で単調な集合住宅のような街並みが続く沈んだ雰囲気を生み出し、経済発展が滞った華やかならざる印象を、ギリシャで撮影された本作に与えている。それが、むしろヨーロッパの失われた時代を映し出す、一種の回顧的な美しさに繋がるというのは皮肉なことだ。

 さらに、『ネオン・デーモン』(2016年)、『ビーチ・バム まじめに不真面目』(2019年)、『WAVES/ウェイブス』を手がけた、エリオット・ホステッターがプロダクション・デザイナー(美術監督)を務め、『ブンミおじさんの森』(2010年)や、グァダニーノ監督作品でカメラを回しているサヨムプー・ムックディプロームが撮影監督を担当していることで、本作の映像や世界観は、一見古びているが、洗練の極みといえるほどの領域に達し、美しい世界を形成している。それは、日本の“わび・さび”に通じた感覚といえるのではないだろうか。

(c)Yannis Drakoulidis/NETFLIX

 それがより理解できるのは、フィロマリーノ監督が、現在の感覚を多分にとり入れた坂本龍一のスコアを気に入らず、以前に坂本が作曲したような性質の音楽を望んだというエピソードにも表れている。そのため、最終的に劇中で奏でられているのは、クラシカルなサスペンスの雰囲気をまとったリッチな内容になっているのだ。本作のクラシック趣味は、音楽面においても徹底されているといえよう。

 面白いのは、それがあまりにもセンスに溢れ、わざとらしい“ヴィンテージ風”の切り貼りのような領域にとどまらない本物の雰囲気に近づいたからこそ、本作の美しさは逆に、何でもない地味なものにも見えてしまうということだ。アメリカの批評サイトで、本作に対する批評家や観客のスコアの低さを見ても、それがいかに“理解しづらい”ほどの領域に到達してしまっているかということが、むしろ理解できるのである。

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