千葉雅也が選ぶ「宮台真司の3冊」 強く生きる弱者ーー宮台社会学について
1995年、高校二年のときに、自室のMacintosh Powerbookがインターネットに接続され、ゲイサイトというものの存在を知ることになる。深夜にアクセスするインターネットは、僕にとってはヴァーチャルな東京だった。ゲイサイトのチャットでは性的な会話も交わされていた。それはヴァーチャルな言葉遊びでしかないが、田舎の「制服少年」だった僕はその深夜のやりとりにおいて、テレクラで待機する制服少女のようなものになっていた、のかもしれない。宮台用語に「第四空間」というものがある。17歳の僕にとってネットはまさに第四空間だった。
「まったり革命」、「終わりなき日常」というフレーズは一世を風靡した。それは「内在」を生きることを言うものだった。弛緩した生き方なのではない。今日の思想を持ち出すなら、終わりなき日常をまったり生きるというのは、カンタン・メイヤスーが論じるところの世界の根本的な偶然性、根本的な「理由なし」に耐えることに当たるとも言える。この世界はたまたま、偶然的にこのように存在しているだけなのであり、究極の理由はない。いわゆる「大きな物語」の追求を、あるいは「超越」の追求を諦めるわけだが、逆説的に、内在にこそさらに高度な意味での超越があるのだ。それは、根本的な偶然性への透徹した感性を持ち、それを受動的なニヒリズムにせずに強く喜ばしく生き抜くことであり、いわば「内在的超越」である。
僕は、男性同性愛の隠された遊戯的性を制服少女の冒険にいくらか重ねつつ、一貫して「弱者の強者性」を言い続けるというスタンスをとっている。90年代の宮台イズムを僕は一度も手放していない。
だが時代は変わった。今や、ニーチェ主義に対する反論が四方八方から押し寄せてくる時代である。90年代に危うい生の様態を試していた者たちも次々に「反省」を言い始めた。「やむをえず」の生き方に弱者を追いやる社会構造の批判が優先され、「実は苦しかった、つらかった」という言説が増えていく。確かに、抑圧されていた苦悩を語ることは必要だ。しかし、かといって、すべてをネガティヴに塗りつぶしてしまう必要はないのではないか。そもそも、純粋100%の悲しみも喜びもない。原理的に言えば、あらゆる知覚は「刺激」なのであって、すべての経験は苦痛だとも言えるし、それがマゾヒズム的にねじれて快楽となるのである(これは精神分析的な考え方だ)。
許容できる経験とできない経験を分かつ線はケースバイケースであり、同じ人においても一定ではないし、一定にすべきなのでもない。人生とは、否定と肯定、苦痛と快楽が混じり合い、その混じり合い方が変化していく複雑な物語であり、そのような複雑さを生きることが「強さ」だと言われるべきである。個々人で異なる複雑さを生きる。だが今日では、個の物語を担うのではなく、何か普遍的と見える基準に頼って善悪を単純に分割し、「個という複雑さ」から目を逸らすような傾向が強まっているのではないか。
個として生きる。それは否定と肯定のあるバランスを孤独に引き受ける勇気を持つことだ。宮台社会学はその勇気を励ましてくれるのである。
■千葉雅也
1978年栃木県生まれ。東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。現在は立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。
■書籍情報
『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』
著者:宮台真司
発売中
ISBN 978-4-909852-09-0 C0074
仕様:四六判/424ページ
定価:2,970円(本体2,700円+税)
出版社:株式会社blueprint
blueprint book store:https://blueprintbookstore.com/