宮台真司の『ジーマ・ブルー』評:『崩壊を加速させよ』で論じた奇蹟がそこにある

宮台真司の『ジーマ・ブルー』評:『崩壊を加速させよ』で論じた奇蹟がそこにある

芸術の不可能性を、なぜ芸術するのかという視座から読み解く。
やがて「世界の不可能性」と「愛の不可能性」が浮かび上がる。

目的合理性と価値合理性

 芸術家は、音楽家は、文筆家は、僕は、なぜ表現するのだろう。表現の動機付けは何なのか。表現に意味があるからか。意味がない表現ならばどうか。表現すること自体に意味を認めるからか。表現expressionと表出explosionを区別する起源の古い枠組を御存知だろうか。百年以上の歴史がある重要な図式なので紹介させていただく。

 ウェーバーが目的合理性と価値合理性を分けたことは知る人も多いだろう。目的合理性とは、「与えられたもの」が目的に適合した手段である度合だ。誤解なきように念押しすると、目的の合理性ではなく、目的に対する手段としての合理性のことだ。一般に手段的合理性と呼ばれているものと同じである。

 価値合理性とは、何かの手段としてではなく、それ自体が価値を持つことを言う。目的合理性を突き詰めると、価値合理性に行き着く。AはBに対する手段として役立つ。BはCに対する手段として役立つ。CはDに対する手段として……と続いて、遡れないZ=最終目的(アリストテレス)に達する。最終目的を端的に支える価値の強度が、価値合理性だ。

 ウェーバーの図式は、宗教と世俗との違いを説明するためのものである。宗教には端的に擁護する価値がある。例えば利他の営み。世俗はどうか。資本主義は勤勉が支える。勤勉は、宗教的価値に近づくための世俗内禁欲(資本からの収益の消費を禁欲して資本の増殖に投入すること)から生じた。だがやがて資本主義のシステムから外れると生きられなくなるという不安から、勤勉に働くしかなくなった。そこには価値が支える最終目的はない。

表現と表出との重ね焼き

 ある営みが「目的合理的か、価値合理的か」というこの図式を、宗教的文脈を超えて拡張させたのが、社会システム理論を創始したパーソンズの「道具的か、表出的か」という図式だった。パーソンズの意図を汲んでそれを「道具的か、コミュニケーション的か」とパラフレーズしたのがハーバーマスだ。しかしそれでかえって分かりにくくなった面もある。

 コミュニケーションにも「何かの役に立つ」のでなされる手段的なものと、それ自体に価値があると感じられてなされる端的なものとがあるからだ。別言すれば、人間関係を何かの手段とする場合に道具的なコミュニケーションが優越し、人間関係自体に価値を認める場合ーー一緒にいることそのものが目的である場合ーー非道具的なコミュニケーションが優越する。

 これらを踏まえて村上泰亮が「道具的か、コンサマトリー(自体的)か」という二項図式を提案した。コンサマトリーとは役立つか否かに関係なくそれ自体が享受に値することを言う。これを踏まえて30年以上前に僕が提案したのが、表現と表出の区別だった。前者は、自分がsuppressしてきたものを相手にimpressするためにexpressする営みのことである。

 相手に印象づけるimpressことに失敗すれば表現expressionは失敗する。だから表現には相手がいる。だが、僕らが声を発するのは相手がいる場合だけではない。やむにやまれず誰もいない所で叫び声を上げることもある。これが表出explosionだ。偶々周囲にいた他の人に感染して、叫びが叫びを呼ぶこともある。「表出の連鎖chain of explosions」だ。

 表現と表出は直交する。口パクで歌うアイドルには表現はあっても表出はない。ヤケになってモノ当たりする者には表出はあっても表現はない。楽しませればOKなだけの大衆芸能は表出よりも表現だ。他方、芸術は作者の思いを受け手に「伝える」表現でもあるが、やむにやまれなさを「刻む」表出でもある。芸術は特に表現と表出の両義性を強く含んでいる。

芸術とテロルとの同義性

 この両義性を含む営みは芸術だけではない。大衆芸能は古くは祝祭時の奉納芝居や奉納舞踊に由来する「眩暈を通じた力の回復」が目的だった。だから力が力を呼ぶ「表出の連鎖」を含む(正確には芸術はそこから分化した)。それどころかテロを含めたあらゆる営みが表現かつ表出であり得る。だからオウム事件の後に高名な演出家が店仕舞いしたのだ。

 こうした両義性に早くから注目したのが一水会元代表の鈴木邦男だ。1970年3月の赤軍派(左)のよど号事件を「意気に感じた」三島由紀夫(右)が11月に自決事件を起こし、これを「意気に感じた」無名の若者ら(左)が74年8月に三菱重工爆破事件を起こし、これを「意気に感じた」野村修介(右)が77年3月に経団連襲撃事件を起こしたのだと訴えた。

 鈴木は、巷の左だ右だとのラベリングとは無関連に、かかる《情動の連鎖》に連なるのが「右翼」だとし、《情動の連鎖》を可能にする共通前提の維持に貢献するのが「保守」だとした。彼の『腹々時計と〈狼〉』を読んだ高校時代の僕は、後にギリシャ哲学史や19世紀の神学者シュライエルマッハを踏まえて、右=主意主義、左=主知主義と再定義した。

 かかる鈴木&宮台の定義によれば、左=主知主義は表現に傾斜し、右=主意主義は表出に傾斜する。鈴木は、恵まれた左翼と違って表現の場がないから、戦前から右翼がテロに走りがちなのだとした。「話せば分かる」(5.15犬養毅)が左で「問答無用」(5.15山岸宏)が右だという訳だ。だから鈴木邦男は、新左翼を「右翼的な左翼」として定義している。

 認識も到達も不可能な全体性を呼び込んで心に傷を付ける営みを「芸術」とする18世紀末以降の初期ロマン派の営みを幾度か紹介した。だが「表出的な(表出に傾斜した)表現」ということであれば、初期ロマン派が参照する初期ギリシャにこそ起源がある。「社会を貫徹する世界」「内在を貫徹する超越」「生を貫く死」を露わにする営みだったからだ。そこでは「内在」次元が表現に、「超越」次元が表出に対応する。だから芸術は死の営みだ。

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる