『闇はささやく』はただのホラーではない “幻想文学”の流れを汲んだ映画としての真価
とはいえ、スウェーデンボルグは死後の世界や奇跡を科学的に証明することはできなかった。さらに聖書を独自に解釈した思想を広めたことが教会に問題視されるなど、一部で強い支持を受けながらも、専門的な分野からは異端的な扱いを受けるに至ったのである。
劇中でも、ジョージが大学に着任した際、大学の学部長に「なぜイネスのような才能あふれる画家がスウェーデンボルグの神秘思想に傾倒したのか理解できませんよ」と語っている。だが間の悪いことに、学部長はいまもなおスウェーデンボルグの思想に共鳴していて、霊的世界の存在を信じていた。スウェーデンボルグの宗教観は、「スピリチュアル」や「ヒッピームーブメント」などにも取り込まれ、現代の「サブカルチャー」や、一部の新興宗教の源流の一つともなっているように、消え去った考え方というわけではない。
このように言うと、スウェーデンボルグはエキセントリックで伝統に反抗する人物のようなイメージを持たれそうだが、彼はあくまで敬虔なキリスト教の信者であることも確かなのだ。むしろ信仰心が強いからこそ、スウェーデンボルグは聖書の真意を独自に汲み取ろうとしたと見られている。その結果として、彼の意志と考えを引き継ぐ教会が誕生し、日本にもスウェーデンボルグ派のキリスト教会が存在している。
スウェーデンボルグは、死後の世界は天国、地獄、霊界に分かれていて、聖書にも書かれている「霊魂」の存在と肉体との繋がりを解剖学的に説明しようと研究を重ね、霊魂を肉体に近いところから高次のステージまでの4段階にまたがる存在であると考えた。本作では、屋敷で死んだ人間の霊の姿が見えたり、交信する様子が描かれるが、登場人物たちは、それを肉体と霊魂のそれぞれのレベルで感応することで、霊の存在を認識することになる。この描写については、それぞれのシーンで演出が異なっているので、ただ怪異が起こって怖い……という以上の意味が持たせられていることが理解できるのである。その点では、怪異をただ感覚的に描くことの多い、よくある恐怖映画とは、本作は一線を画している。そんな姿勢は、霊魂と科学を結びつけようとしたスウェーデンボルグ的なアプローチだともいえよう。
少しずつ異常性が露わになっていくジョージの予想を超えた行動が物語を引っ張っている本作だが、その背景にあるのが、彼の隠していた過去である。ジョージにはむかし絵の才能がある優秀な従兄弟がいて、彼は自分がゲイであることへの周囲の無理解に悩み、海に出て帰ってこなかったのだという。従兄弟の才能に憧れを抱いていたジョージは、彼の描いた絵を自分の作だと妻に語り、美術に身を捧げていた彼の功績を不当に奪っていた。身分を偽ってまでも肩書きや周囲の評価を病的に欲しがるジョージは、“自分”を失いかけているからこそ、霊に導かれ凶行へと走っていくことになるといえよう。妻のキャサリンもまた、そんな夫に振り回されることで、自分らしい生き方ができなくなっていく。
「この屋敷に住む女性には正義が味方しないのかしら」……屋敷の過去を知る保安官の妻が劇中でつぶやくように、屋敷ではこれまで、おそらくは霊に導かれて、女性が虐待や凶行の犠牲になってきた。そんな負の歴史は、社会で繰り返し起こっている家庭内暴力の歴史でもある。男性は社会的なステータスに振り回され、女性はそんな男性に振り回される。本作が暗示した不幸の繰り返しは、ジョージとキャサリンだけでなく、実際に存在する家庭の中でも同様の構図が、あたかも呪いのように連綿と継続していることを指し示しているように感じられる。
映画作品においても、本作のように斧で妻を襲う暴力的な夫というモチーフは、スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(1980年)や、その参考になったと見られる、「スウェーデン映画の父」と呼ばれたヴィクトル・シェストレム監督の『霊魂の不滅』(1921年)に登場し、それぞれの時代でリアリティが感じられる恐怖表現となっている。
本作がとくに面白いのは、迫り来る死を必ずしもネガティブなものと考えていないところだ。スウェーデンボルグによると、霊魂は肉体を離れ、自らの意志によって自分に相応しい場所へと進んでいくという。この世での生も、死の瞬間も、霊魂にとっては通過点に過ぎない。地獄に落ちる罪人すら、裁かれて落とされるのではなく、霊自身が自分のいるべきところを見定め、進んで落ちていくというのだ。それは、トマス・コールの絵画における船と人生のモチーフや、ジョージ・イネスのタッチで表現される、複雑な本作の絵画的ラストに繋がっていく。