『シン・エヴァ』ラストカットの奇妙さの正体とは 庵野秀明が追い続けた“虚構と現実”の境界

実写映画では生々しさを削っていく

 アニメでは生々しさを追求した庵野氏は、どういうわけか、実写では逆方向に舵を切り、生々しさの欠けた実写映像を生み出していく。

 庵野氏が最初に取り組んだ実写映画は『ラブ&ポップ』だ。市販のデジタルハンディカムを使ったことと、援助交際がテーマという点で注目された本作は、現実を切り取った実写映像にもかかわらず、奇妙に現実感を喪失した印象を受ける。

でも、不思議なもので、実写1本やると、その実写のときには、逆に、生々しさを削っていくんですよ。できるだけうそ寒くして、不思議なものにする。全く逆のものを求めてしまう。※7

 だが、アニメと真逆の方向性を志向するまでにも紆余曲折あった。庵野氏は当初、『ラブ&ポップ』をいわゆるフェイク・ドキュメンタリー的な形式で作ろうと考えていた。企画会議では『ラブ&ポップ』を原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』のような作品にしたいと語ったそうだ。

 そして、プロットを任された薩川昭夫氏は、庵野秀明自身を主人公に見立て、カメラを持って女子高生の援助交際を追いかけていくうちに自分も援助交際にのめり込み、そのせいで『旧劇』の公開が遅れた、という事実と嘘が混じり合ったプロットを書き上げる。

 しかし、これは没になった。それを断念させたのは一本のドキュメンタリー映画だった。平野勝之監督の『由美香』である。『由美香』は平野氏のAV『わくわく不倫旅行』シリーズの劇場公開版だが、平野氏自身がカメラの前で己をさらけ出している姿を見て、「ここまで自分にはできない、生々しさを追求してもこれには勝てない」と悟り、方向性を変えたのだ。(※8)

 生々しさを断念しても、庵野氏は実写という手法に、それ以外の重要な可能性を見出していた。庵野氏は、アニメと実写の違いについて、アニメは全てを頭の中で考えないといけないのでイメージの外に出られない、実写は自分のイメージの外のものを取り込める」という主旨のことをよく語るが、『ラブ&ポップ』は、その実践の場となった。

 『ドキュメント ラブ&ポップ』には、「デジタルカメラに機動力があるために様々なことがやれてしまうので、庵野や魔砂雪がその可能性をひとつひとつ試していく結果、いつまで経っても撮影が終わらない(※9)」と記述されている。過日放送されたNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』の庵野秀明スペシャルの放送で、バーチャルカメラから切り取った大量のアングルを検討する庵野氏の姿が印象的だったが、あの状況とよく似ている。

 もうひとつ、庵野氏がアニメにない実写のメリットとして挙げていたのが、カメラの自由度だ。セルアニメの頃はカメラを動かす演出は実写に比べてはるかにやりづらかった。岡本喜八との対談の中で庵野氏は、明確にそのことを指摘している。

アニメだと、どうしてもフィックス(カメラを固定して撮ること)がメインになっちゃいますね。あとは二次元的なパン(カメラを同じ位置に据えて、方向だけ動かすこと)やT・U(Track up カメラを被写体に接近移動させながら撮ること)等しかカメラは動かせないです。背動(背景動画)や回り込みは効率が悪いですね、アニメだと。※10

 『ラブ&ポップ』のハンディカムは、とにかくよく動く。カメラの自由度に関しては、今ではアニメもデジタル撮影の技術進歩によって大きく発展しており、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でもその恩恵を受けている。アスカがシンジにレーションを無理やり食わせるカットなどにそれはわかりやすく発揮されている。

 続く、実写映画『式日』では35ミリでの映画作りに挑み、やはりどこか現実感を喪失した、白日夢のような作品を作り上げている。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のラストシーンの舞台でもある宇部新川が舞台の本作は、東京で「カントク」をしている男と、不思議な女性との日々をつづった作品だ。この映画では画作りの実践以上に、ナラティブに「虚構と現実」と「実写とアニメ」というテーマを深化させる内容となっている。

 主人公のカントクのモノローグは端的にそれを物語る。

映像、特にアニメーションは個人や集団の妄想の具現化、情報の操作選別、虚構の構築で綴られている。存在をフレームで切り取る実写映像すら、現実を伴わない。※11

 ここには、『旧劇』でアニメファンに突き付けた「現実」としての実写映像はない。実写=現実で、アニメ=虚構という単純な二項対立はすでに消失している。

 これは、一流の映画監督なら当然のように自覚されていることだ。ドキュメンタリーでさえ、現実そのままではない。『ドキュメンタリーは嘘をつく』という著作を持つ森達也監督は、上述した庵野氏との対談イベントの中でこう語る。

メディアを媒介と訳せば、僕の作品も含めて、事実はその媒介を経過するわけだから、虚実は絶対に綯交ぜになってしまう。映像は事実だって勘違いする人がいるけれど、映像だってカメラアングルという主観で全然違います。※12

 全ての映像は作り手の主観を通過する以上、現実とイコールで結べない。これは映像が本質的に抱える体質である。ならば、アニメと実写の違いは、虚実の混じり具合、濃度の問題だけではないか。実写とアニメを往来する庵野氏は、その濃度の調整が何を生み出すのかを見極めようとしていたのかもしれない。

 実写映画3作目の『キューティーハニー』はその濃度の大胆な調整を試みている。本作では、生身の役者に一枚ずつ、アニメの原画のようなポーズを取らせた写真をつないで、非現実的な運動を創出する手法が取り入れられた。この手法を、制作陣は「ハニメーション」と呼んだ。要するに、この連載の『PUI PUI モルカー』回(参照:実写なのにアニメ―ション? 『PUI PUI モルカー』から“ピクシレーション”を考える)で取り上げたピクシレーションだ。

 コントロールされたアニメの世界に限界を感じた庵野氏が、アニメ的なコントロール感を実写に持ち込もうとしたのは興味深い。アニメでは実写的生々しさを求め、実写ではその逆に向かう。庵野氏の作家性は、実写とアニメの境界を「越境」することそのものにあるのかもしれない。そんな姿勢を庵野氏は「ないものねだり」と呼んでいる。

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