『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2/Air/まごころを、君に』が“圧倒的”である理由

 熱狂とともに迎えられた『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(「春エヴァ」)は、衝撃的な内容だった。この作品は前述したようにTVシリーズ総集編と25話の前半部で構成され、総集編が「DEATH」、完全新作部分が「REBIRTH」と名付けられた。総監督を庵野秀明が務め、メインスタッフの摩砂雪と鶴巻和哉が監督としてそれぞれの作品を手がけている。ちなみに、タイトルの“シト新生”とは、劇中で人類の敵となる“使徒”が再び現れるという意味のほか、“死と新生”、すなわち“DEATH & REBIRTH”を暗示した、ダブルミーニングとなっている。

 「DEATH」は、TVシリーズのカットを中心に、新作カットを一部追加して編集されたものだ。主人公の碇シンジや、綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレーらが、それぞれに弦楽器を奏でながら過去を思い出すという設定になっている。まず、この内容からしてぶっ飛んでいる。総集編とは、これまでの流れを説明する役割を担うものだが、「DEATH」はアクションなどの見どころを押さえながらも、追い詰められていく少年少女たちの心理を軸に編集された、ほとんど“リミックス”といえるような独立した作品になっていたのだ。

 この内容は、同じく内面の葛藤がヴィジュアルとしてそのまま描かれる「夏エヴァ」の先触れでもあった。しかし、ここで初めて「エヴァ」に触れる観客にとっては、多くの部分が理解できないものとなっている。これでは、総集編としての存在意義自体が危ういのではないか。三石琴乃演じる葛城ミサトが、TVシリーズの予告編において「サービスサービスぅ」と言いながらも、実際の対応はツンとしている。この不親切さこそが「エヴァ」ならではともいえるのである。

 言及しておきたいのが、劇場公開時期の「DEATH」についてである。この作品は、公開当時WOWOWで放送されたバージョン「DEATH (TRUE)」で内容が一部修正され、さらに翌年の『REVIVAL OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)2/Air/まごころを、君に』公開時に「DEATH (TRUE)2」という再々編集版となった。現在観ることのできるバージョンは、庵野監督が“本来のかたち”だとしている「DEATH (TRUE)2」であり、今回の再上映版もこれが上映されている。

 修正前の「DEATH」では、惣流・アスカ・ラングレーの精神的葛藤が長く描かれ、同じ場面を何度も繰り返す反復的な演出や、サイコホラーのような表現が見られた。WOWOWで放送された「DEATH (TRUE)」では、そのあたりがすでに削られていて、ゲンドウの右手に融合した、ある“生物”が描かれたカットが加わるなど、ほぼ「DEATH (TRUE)2」に近いかたちとなっていた。そして、25話の前半を描き直した「REBIRTH」もまた、暫定的なかたちの作品であり、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(「春エヴァ」)は、当時発売されたソフトや、BOX版などでしか観ることの難しい、レアな作品となったのだ。

 そして、満を侍して公開された「夏エヴァ」こと『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』は、圧倒的なアニメーション表現によって、さらなる衝撃を与えると同時に、賛否の意見が飛び交い、論争が巻き起こる問題作となった。

 まず、アニメーションそのものの出来が素晴らしい。Production I.Gが共同製作したことも手伝って、全体の作画技術や原画のクオリティが、TVシリーズから飛躍的にアップしている。1997年当時は、同時期公開のスタジオジブリ映画『もののけ姫』が象徴するように、セル画によるアナログ手描きアニメーションが終わりを迎えていく時期であり、日本のアニメーションが受け継いできた従来の技術が一つのピークを迎えた時期でもあった。ダイナミックな構図や、作り手の直感による疑似的なカメラワークによるアクション表現など、その完成度は、この後の「新劇場版」シリーズと比べても圧倒的だといえよう。

 そして、何より圧倒されるのは、本作のテーマやストーリーである。「REBIRTH」でも描かれた問題の冒頭部分では、使徒の攻撃による精神汚染と、自らの存在意義を失ったことで入院している惣流・アスカ・ラングレーの裸を眺めながら、碇シンジが自慰行為をして「最低だ、俺って……」と自己嫌悪に陥る場面が表現される。このように、誰が見ても卑劣で、蔑まれるような主人公の行いを見せることで、反発の声があがったことは確かだ。しかし、シンジ自身が「最低だ」と自認しているように、このような罪を犯してしまう自分への失望が、本作のテーマと深く関係することになるのも確かだ。そして、このシーンを見せること自体が、“きれいごとの嘘ではなく、汚くとも本当のことを描く”という、監督からの観客への宣言になっているのである。

 日本における“近代文学”は、その黎明期に書かれた森鴎外の『舞姫』(1890年)に代表されるように、主人公をはじめ登場人物を善悪のような二元的な存在として描かず、善と悪を含んだ複雑な存在として描くことから始まっている。旧劇公開当時、「エヴァは文学」と盛んに言われたのは、このような複雑な人間性を獲得している人物のドラマを描いたからだ。

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