家族の“やっかいさ”が愛おしい フランスからの贈り物『ハッピー・バースデー 家族のいる時間』

『ハッピー・バースデー』家族の愛おしさ

 そのアンドレアを演じるのは、ご存知のとおりカトリーヌ・ドヌーヴ。映画ファンにとっては往年のヒロインの象徴的な存在であり、作り手たちの多くにとってはミューズとして、フランスのみならず、世界の映画シーンの中心を歩みつづけてきた。是枝裕和監督による『真実』(2019年)での好演も記憶に新しいだろう。今作『ハッピー・バースデー 家族のいる時間』の座長は主演を務めている彼女だが、その佇まいは、さながら“家長”のようでもある。

 ふつう、家族において(家族のみならず、あらゆる“共同体”にいえることだが)、父親、母親、娘、息子、あるいは孫など、それぞれの立場は異なれど、それぞれの視点においては自分が主役である。たとえば私(や、あなた)が誰かの息子だとして、「家族」における主役ポジションをほかの誰かに譲ることは少ないのではないだろうか。もちろん、時と場合による。しかしながら、その“時と場合”の「中心」にいるのがほかの誰かだとしても、それは主役である自分の視点が捉えた客観的なものでしかないはずだ。

 観客たちが自分の身に置き換えてみれば当然のこの事実を、本作は軽快かつ鮮やかに描き出している。劇中では、クレール、ヴァンサン、ロマン、エマら、それぞれの立場における各人が、自己主張の強さによって主役の座に躍り出るのだ。彼らが各シーンごとに主役となるのは(見せ場をつくるのは)、まさに演劇のようである。映画の公式ホームページの「Introduction」の文末に、“演技の饗宴ともいうべき素晴らしき俳優映画が誕生した。”とあるが、疑いようのない、本作にふさわしい言葉だと思う。そう、本作は“家族映画”であるのと同時に、“俳優映画”の側面をも持っているのだ。なにも“俳優映画”とは、激しい演技バトルを繰り広げるものを指すのではない。先に記したように、シーンごとに演じ手の立場が的確に入れ替わるもののこと。“家族映画”と“俳優映画”の親和性が高いことを、本作によって再認識させられた。そして、これらを制し、まとめ上げているのがドヌーヴなのだ(もちろん、本作の監督でもあるセドリック・カーンの演出があることは言わずもがなだ)。繰り返すが、彼女はこの「家族」においての“家長”であり、この「映画」においても“家長”なのである。

 さて、“家族映画”というものは古今東西に多く存在するわけだが、近年、数が増えているように思えるのは気のせいだろうか。昨年に公開された日本映画だけでも『ステップ』『浅田家!』『さくら』『泣く子はいねぇが』ーーなどなど、さまざまなカタチの家族像を描いた作品がいくつも思い出される。実際、どこからどこまでを“家族映画”とするのかは観る者しだいだと思うが、“家族映画”に対するこの感覚は、数多くの映画作品のなかにある「家族」の要素に対してこれまで以上に敏感になり、その要素を強く感じ取っているからなのではないかと思う。私たちの現実世界における、家族との“会えない距離”、“会えない時間”がそうさせているのだろう。本作もまた、そんな思いをより強くさせるのだ。クレールらが生み出す“やっかいさ”が、ちょっと羨ましい。

 最後に、本作の核心に少しだけ触れてみるのならば、それはこの家族にとって、ささやかながらも“ハッピー”な瞬間が訪れるということである。舞台がフランスであろうと日本であろうと、人々が集まる「家族のいる時間」に舞い降りるであろう幸福な瞬間は変わらないはず。ふとしたことで、幸せなひとときは訪れる。私たちにも、必ずやそんな日が訪れるのを夢見て。

■折田侑駿
1990年生まれ。文筆家。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、服飾、酒場など。最も好きな監督は増村保造。Twitter

■公開情報
『ハッピー・バースデー 家族のいる時間』
全国公開中
監督:セドリック・カーン
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、エマニュエル・ベルコ、ヴァンサン・マケーニュ、セドリック・カーン
提供:東京テアトル/東北新社
配給:彩プロ/東京テアトル/STAR CHANNEL MOVIES
2019年/フランス/101分/5.1ch/シネマスコープ/カラー/原題:Fete de famille/英題:Happy Birthday
(c)Les Films du Worso
公式サイト:happy-birthday-movie.com

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