2020年の年間ベスト企画
年末企画:荻野洋一の「2020年 年間ベスト映画TOP10」 すべてが転覆可能な天/地にほかならない
『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』のファティ・アキンには、1970年代ハンブルクの性風俗街レーパーバーンを再現することにすべてを賭けるという、めざめの悪い固執だけがある。この画面の切れはしに、ひょっとすると大先輩ファスビンダーの霊が写ってくれているかもしれないという虚妄に近い情熱。ゲルマン・Jr.のレニングラードも、ファティ・アキンのレーパーバーンも、矢崎が忍ばせた甲州の斜面も、多部未華子の住む「空」も、苗族の映画作家が振り返るふるさとの凱里も、小田香が沈潜するユカタン半島の水底も、『風の電話』の広島から岩手県大槌町に至るモトーラ世理奈の動線も、『おらおらでひとりいぐも』の田中裕子が住むアルツハイマーの桃源郷も、すべてが転覆可能な天/地にほかならない。
『イサドラの子どもたち』のラストシーン。伝説の舞踊家イサドラ・ダンカン(1877-1927)がわが子を眼前でセーヌ川で溺死させた罪悪を身体に刻みつけて生み出したダンス作品『母』の一部を、老いた黒人女性が公演を見て帰宅したあと、自宅の照明も点けぬまま振付を復習ってみせるとき、薄暗がりからこの黒人老女を見つめるカメラアイは、おそらく老女自身のかなり昔に亡くなった息子の視線なのだろう。ろうそくに灯された写真の主。そのとき、私たち観客がスクリーンに投じる視線は、老いた母を暗闇からそっと見つめる息子の霊そのものとなるのだ。映画というメディアが書き込む思考とは、このようなものである。
■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。
■公開情報
『空に住む』
公開中
出演:多部未華子、岸井ゆきの、美村里江、岩田剛典、鶴見辰吾、岩下尚史、高橋洋、大森南朋、永瀬正敏、柄本明
監督・脚本:青山真治
脚本:池田千尋
原作:小竹正人『空に住む』(講談社)
主題歌:三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE「空に住む〜Living in your sky〜」(rhythm zone)
プロデューサー:井上鉄大、齋藤寛朗
配給:アスミック・エース
製作:HIGH BROW CINEMA
(c)2020 HIGH BROW CINEMA
公式サイト:soranisumu.jp