志村けんさんと映画の深い繋がり サイレント映画をテレビで再構築した最後の芸人に

 日本を代表するコメディアン、志村けんさんが3月29日に逝去された。ザ・ドリフターズのメンバーの一人として、多くの人々を笑いにいざなってきたが、コントでの演技を通し、“俳優”としての類まれなる資質を評価していた声も非常に多い。俳優としての活動は決して多くない志村さんだが、映画とは深い繋がりがあったと、映画評論家のモルモット吉田氏は語る。

「志村さんは1968年にザ・ドリフターズの付き人となりましたが、翌年には早くも映画に初出演しています。当時製作されていたドリフ映画の1本『ドリフターズですよ!冒険冒険また冒険』(1969年)にゲイっぽい風貌で登場します。名画座で上映されると、このわずかな登場場面がいちばん盛り上がっていました。その後、荒井注さんの脱退で志村さんが正規メンバーとしてドリフに入ってからは、末期のドリフ映画に主要な役で出演していますが、『東村山音頭』でブレイクする前ということもあって、存在感が際立つとは言い難いところがあります。

 その後、人気者になった志村さんと映画の接点は薄いように思えますが、映画を積極的にコントの中に取り入れていました。『8時だョ!全員集合』の前半コントでは、志村さんが金田一耕助に扮するコントがシリーズ化されていましたが、今から見ると、70年代後半の横溝ブームの中で、『獄門島』(1977年)や『八つ墓村』(1977年)の設定を上手く取り入れているのがわかります。『全員集合』後半コーナーで加藤茶さんと演じたヒゲダンスは大ブームとなりましたが、当時、『世界の喜劇人』などの著書がある作家の小林信彦さんが「あれは、扮装といい、ひげといい、グラウチョ・マルクス(グルーチョ・マルクス)ではないか」と指摘しています。マルクス兄弟の喜劇映画が志村さんに与えた影響は大きく、『全員集合』時代から『志村けんのだいじょうぶだぁ』『志村けんのバカ殿様』に至るまで繰り返し再演された鏡に向き合って互いに動きを真似るコントは、マルクス兄弟の『我輩はカモである』(1933年)に元ネタがあります」

 多くの人が親しんできた志村さんの“鉄板ネタ”の背景には、サイレント映画があったのは間違いないと吉田氏は続ける。

「志村さんがサイレント喜劇映画も熱心に観ていたことは、70~90年代にかけてオフシアターでの上映会に志村さんが現れたという目撃談が複数残されていることからも明らかです。ビデオ時代になってからも、かなりのソフトを買い込んで研究していたといいます。近年の仲本工事さんのインタビューに『加藤は天才、志村は秀才』という言葉がありましたが、加藤さんは閃き型で、志村さんは研究して試行錯誤する努力型ということでしょうね。既存のものにインスパイアされて、アレンジして自分の色にするというタイプ。実際、Mr.ビーンも日本で話題になる前からいち早く取り入れていました。そうした新しいものに目を付ける一方で、『チャップリンの黄金狂時代』(1925年)の有名な掘っ立て小屋が傾く設定をそのまま『バカ殿様』でやったりする。これらの中にはオチまでオリジナルと寸分違わないものがあり、インスパイアと呼ぶには苦しいものがある気がしますが、今後コメディアン・志村けんを、功罪も含めて丁寧に検証して論じる人が出ててきてほしいと思います。とはいえ、こうしたサイレント映画をテレビで再構築する芸人は、志村さんが最後ではないでしょうか。若い芸人にもそうした素養がある方もいるでしょうが、大がかりなセットを建てる余裕は今のテレビにはないでしょう」

 出演シーンが短いながらも、「俳優・志村けん」の実力をしらしめたのが高倉健主演の『鉄道員』(1999年)だ。高倉健から直接オファーを受け、酔っ払いの炭鉱夫の役を引き受けたという。吉田氏はその演技を次のように語る。

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