大森南朋、長澤まさみが“生きる価値”を訴える 『神の子』が舞台化した、街中から聞こえてくる叫び
そんな大森演じる池田だが、長澤演じる田畑らとの出会いによって、少しずつ変化を見せていく。自ら他者に、ひいては物語(=人生)に、積極的に関わろうとしていくのだ。このヒロインを演じる長澤は、終始人形のような笑顔の貼りついた人間で、人間味といったものを欠いている。彼女の発する言葉は優しいが、どこか機械的で温かみが感じられないのだ。彼女は石橋演じる斎藤たちとともにゴミ拾いのボランティアに精を出しているが、その行為を彼女らは善的なものと信じてやまない。むろん、社会奉仕は素晴らしいことだが、彼女たちの場合はそれが手段ではなく、目的化している。それは社会をより良くする手段ではなく、“善行を積む”という目的なのである。
池田と田畑は生きる世界のまったく違う人間だが、どちらも生きづらそうに思えて仕方がない。しかし、この二人が出会い、交流していくことで、両者ともが人間らしさを獲得していく。
ありふれた“日常”を舞台上に乗せるうえで、“見せ物”として成立させるための赤堀作品特有の唐突な“叫び声(=怒鳴り声)”が本作にも見られた。急に大声で怒鳴ったりするのは非現実的な行為に思えるが、彼の作品には、人間の怒りや悲しみが色濃く描かれている。日々の中で誰もがこの感情を押し殺しながら生きているだろう。私たちは彼らに自身を重ね、その“叫び声”に心を同化させることによって発散させるのだ。自己を抑圧すれば、人間らしさは損なわれていく。この演出は“日常”を演劇化するための一つの手法であるのと同時に、“人間らしさ”の表象にもなっている。だからこそ、“生きる価値”についてやがて池田が、そして田畑が、声をつまらせながらも必死に訴え合う姿は人間味に溢れ、胸に迫ってくるのである。
さて、本作は田中、大森、赤堀たち自らが各俳優への出演オファーをしたそうだが、演技巧者が一堂に会している。とくにスナックのママを演じる江口のりこは絶品だ。だらしない男たちに向かって関西弁でまくし立て、ときに発する悲哀混じりのユーモアは重苦しい展開を救う。長澤の相方役を務めた石橋静河は最年少だが、彼女の持つポテンシャルも最大限に発揮されていた印象。“かつてバレエ少女だったが挫折した”というキャラクター設定に強固なリアリティを与えている。石橋自身も実際にバレエ経験者とあって、ちょっとした所作の美しさが目を引くのだ。彼女たちもまた生きづらさを抱えた人間を演じているが、各々の得意とするところの活きた表現に、「ナイスキャスティング!」と唸ることしきりである。
本作には「楽園」という印象的な言葉がたびたび登場する。それはパチンコ店の名前であり、また神を信じるものたちが思い描く楽園でもある。街をゆく人々がさまざまなように、彼らの思う楽園もさまざまだ。趣味であるパチンコに、楽園を見出して何が悪いというのだろう。善行を積むことによってやがて楽園にたどり着けることを夢見て、何が悪いというのだろう。
物語は工事現場にはじまり、工事現場で幕となる。マクロな視点から見れば何も変わっていないように感じるけれど、彼らに寄り添ってみれば明らかな変化を感じる。そんな彼らは、私たちと何か大きな違いがあるだろうか。その問いかけは、果たして“私たちに生きる価値はあるのか?”という問いに帰結するように思う。
借金まみれの男、何かの教えにすがるしかない女、酔っ払いのニート……すぐそばで見ていれば受け入れることができても、少し離れた異なる共同体から見れば受け入れがたいものもあるかもしれない。しかしみな、等しく人間であり、タイトルの示す通り、等しく「神の子」なのだろう。不器用な彼らだが、彼らには生きる価値がある。そんな彼らとのコミュニケーションをあきらめたくない。そして彼らと同じように、私にも生きる価値があるーーそんなことを思いながら下北沢の街をあとにした。
(取材・文=折田侑駿、写真=引地信彦)
■公演情報
『神の子』
作・演出:赤堀雅秋
出演:大森南朋、長澤まさみ、でんでん、江口のりこ、石橋静河、永岡佑、川畑和雄、飯田あさと、赤堀雅秋
東京・本多劇場
2019年12月15日(日)~30日(月)
名古屋・ウインクあいち
2020年1月7日(火)~9日(木)
福岡・福岡国際会議場
2020年1月13日(月·祝)
広島・JMSアステールプラザ
2020年1月16日(木)
大阪・サンケイホールブリーゼ
2020年1月18日(土)・19日(日)
長野・サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター)
2020年1月23日(木)
静岡・浜松市浜北文化センター
2020年1月25日(土)・26日(日)
公式サイト:https://www.comrade.jpn.com/kaminoko/