『グリーンブック』はアカデミー賞作品賞にふさわしかったのか? 批判される理由などから考察
特異な登場人物が差別の実態を際立たせる
タイトルにもなっている「グリーンブック」というのは、アフリカ系アメリカ人の旅行者向けのガイド本のことである。当時のアメリカ南部はジム・クロウ法によって、時代錯誤的で露骨な人種隔離が盛んに行われていた。公共の乗り物やホテル、トイレ、映画館など、黒人は白人とは別の施設や入り口や席を利用しなければならなかった。そんなガイド本が存在するというだけでも差別的だが、差別が当たり前になっている社会においては、アフリカ系アメリカ人の助けになるようなものであったことは事実ではあるだろう。
ドン・シャーリーは博士号を持ち、その才能も業績も広く評価され、カーネギーホールの上の階に住むような高所得者である。それにも関わらず、当時のアメリカ南部の多くの街で、彼はグリーンブックに載っているような劣悪な環境の宿泊施設にしか泊まれず、皮肉にも自分が雇っているトニーの方が良いクラスのホテルや部屋が用意されるのである。挙げ句の果てに、プランテーションを経営する白人の大地主は、ドンを邸宅に賓客として招き演奏させながら、屋敷の外に置かれた使用人のトイレを使うことしか許可しないという、信じがたいほど失礼な対応をする。
お金を持っていたり社会的地位があっても、そして白人であるトニーが物をくすねたりゴミのポイ捨てをすることを注意するような、高潔な精神を持っていたとしても、肌の色が違うというだけでこんな目に遭ってしまうのだ。ドンは旅の途中で、農園で働いているアフリカ系の貧しい人々から思わず目を離せなくなってしまう。彼がもしこの農園の子どもとして生まれていたら、どんなに才能があったとしても世に出ることは叶わなかっただろうし、ここで奴隷同然の日々を過ごすしかなかったかもしれない。ドン・シャーリーという並外れた存在が、ここでは差別というものの浅ましさを分かりやすく暴き出していく。
そして、当初はアフリカ系の人種に差別意識を持っていたトニーも、ドンのことを手伝うなかで、お高くとまっているように見える彼の優しい人間性に触れると同時に、周囲の理不尽な仕打ちを目にすることによって、差別というものが合理的な意味の無い醜悪なものだと気づき、差別主義者だった自分自身の愚かしさにも気づいていく。
『グリーンブック』の何が批判されるか
このようにドンとトニーの人間性を描きながら、本作は娯楽的な手法によって人種差別を批判するテーマを観客に伝えていく。人種問題を大きな枠組みで捉えるというよりは、あくまで人間と人間の個人的な問題ととらえることで、それぞれが敬意を払い合い融和していくことの重要性が、無理なく語られている。たしかに進歩的で正しいと思える内容である。これのどこが悪いというのか。
この問題を考えるには、第62回アカデミー賞作品賞を受賞した『ドライビング Miss デイジー』(1989年)を例に出すと分かりやすいかもしれない。白人の老婦人(ジェシカ・タンディ)と、彼女を運ぶアフリカ系の専属運転手(モーガン・フリーマン)の間に芽生える、人種の垣根を越えた友情を描く物語で、『グリーンブック』と非常に似た構造の作品である。この『ドライビング Miss デイジー』、作品賞を獲りながら、じつは『グリーンブック』同様、アフリカ系アメリカ人などを中心に、批判された経緯のある作品だ。そして、運転手役を演じたモーガン・フリーマンに至っては、アフリカ系の一部から非難されるほどだったという。
その理由は、アフリカ系アメリカ人の立場に立って考えることで分かってくる。言うまでもなく、そもそもアフリカ大陸の人々を奴隷としてアメリカへと運び、非人道的な労働をさせ、人間以下の扱いをしてきたのは、他ならぬアメリカ白人の権力者たちである。奴隷は人権を剥奪され長年の間過酷な労働を強いられ、奴隷主や民衆に虐殺されることもあった。そして奴隷制度が廃止されてから現在に至るまで、差別は残り続けている。
ごくごく簡単に振り返ってもこれだけの悲劇的な歴史があるなかで、「差別は良くない」という単純なメッセージは、被害の歴史を背負う人々にとって軽く聞こえないだろうか。差別が良くないのは多くの人々が同意するところだが、差別がいま現在もはびこっていることこそが問題だというのが、現在のアフリカ系アメリカ人の感覚なのではないだろうか。あくまで個人の物語として描かれている本作の物語だが、それをアメリカの黒人差別の悲劇の歴史と完全に切り離すことは無理だろうし、接続されているがゆえに、それが心温まる物語として成立してしまうことに違和感が生じる人がいるというのは仕方のないことかもしれない。