音楽の世界を駆け抜けた冒険家ミシェル・ルグラン 映画音楽で開花させた才能を紐解く
フランスを代表する作曲家、ミシェル・ルグランが1月26日にこの世を去った。享年86歳。半世紀以上に渡って数多くの映画音楽を手掛け、ジャズやポップスの歴史にも大きな足跡を残し、さらに自ら歌手として歌い、必要とあらば映画監督にも挑戦したルグランは、冒険家のように果敢に音楽の世界を駆け抜けた。
ルグランの作曲家としてのエッセンス
ルグランは1932年2月24日にパリで生まれた。父親のレイモン・ルグランは音楽家。姉のクリスチャンヌ・ルグランは歌手という音楽家の血を引くルグランは、子供の頃からピアニストとして才能を発揮。パリ国立高等音楽院に入学すると、数々の才能を世に送り出した音楽家、ナディア・ブーランジェのもとで学び、作曲家としての基礎を叩き込まれる。フランスで最高の教師からクラシックを学びながら、同時にルグランはジャズにも惹かれるようになり、酒場でジャズを聞きながら女の子たちとダンスに興じた。ブーランジェはルグランがジャズを演奏すると眉をひそめたそうだが、ルグランいわく「ナディアが教えてくれる音楽が天使だとしたらジャズは悪魔」。クラシックとジャズがルグランの作曲家としてのエッセンスだった。
学校を卒業したルグランはクラシックの道には進まず、ジャズ楽団やシャンソン歌手の伴奏など食べて行くためには何でもやった。そして、映画やテレビの仕事をしていた父を手伝ううちに才能を認められて、セルジュ・ゲンスブールやジュルジュ・ブラッサンスなどシャンソンのスター達が所属していたレコード会社、フィリップスと契約。アレンジャーとして活躍した。そして、ルグランの名前が知れ渡るきっかけになったのが軽音楽集『アイ・ラヴ・パリ』(54年)だ。パリを題材にした名曲の数々を、ルグランがオーケストラ・アレンジした本作はアメリカで大ヒットを記録した。