岡田准一主演『来る』に隠された「あれ」の正体 原作との比較から考える

映画『来る』が迫る、「あれ」の正体

 頭痛、めまい、吐き気をおぼえつつ、劇場の出口をめざした。澤村伊智によるホラー小説『ぼぎわんが、来る』(角川ホラー文庫刊)を原作とした、中島哲也監督の4年ぶりの新作『来る』を観てのことである。

 『告白』(2010)、『渇き。』(2014)と、一大センセーションを巻き起こした監督の最新作とあって、鳴り物入りで迎えられた本作だが、やはり、というべきか、原作の読後感とは印象が異なる。中島作品らしい音と光の氾濫が私たちを襲い、原作からの改変と演出、俳優たちの演技といったものが有機的にはたらいた、ある種の映画の力を感じられる作品となっているのだ。

 さて、なぜ映画化に際し、タイトルから「ぼぎわん(が、)」が消されているのか。前作が『果てしなき渇き』という原作のタイトルから、映画では『渇き。』と改変されていたことを鑑みれば、単純に口に出しやすい“語呂の良さ”が理由だと考えることはできるかもしれない。思えば『告白』もタイトルが二文字の作品であり(『渇き。』は厳密には三文字だが)、誰もが一度でも目にすれば/耳にすれば、口に出しやすいというのはあるだろう。宣伝的な戦略判断だろうか。しかしそれ以上に重要なのは、本作において「ぼぎわん」という主体そのものが消されている、正確に言えば、“隠されている”、あるいは“ぼかされている”ということである。原作とは「ぼぎわん」そのものの扱われ方が異なるのだ。

 ところでこの「ぼぎわん」とは、とある地方の民間伝承にある妖怪の名だという。安易にその名を口にすることははばかられ、みな一様に「あれ」と呼んでいる。原作では、土着風習や、ある一族の因縁といったものをたどることで、やがて「ぼぎわん」という存在の実体が見えてくるのだが、本作ではその実体を捉えることはできず、より匿名的に「あれ」として扱われているのだ。つまりは、曖昧な存在なのである。

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