『ヴェノム』は“サド侯爵”の精神的な子孫であるーーバディムービーとしての朗らかさ

荻野洋一の『ヴェノム』評

 なぜヴェノムは、ワン・プラス・ワンがどこまで行っても「ワン・プラス・ワン」にすぎないというトートロジーと戯れ続けなければならないのか。その理由はあきらかで、つまり私たち人間は残酷さを生のまま甘受するほど強靱ではなく、私たちは耐えられないからだ。重大なテロや空爆を、その現場音だけ聴かされたまま放置されるのを、私たち現代人は耐えられない。同様に人類滅亡の当日も私たちはあいかわらずテレビかインターネットの実況を聴きながら眺めることになるだろう。中には田舎に引きこもって何も見ない、何も聴かないという人はいるだろうが、そういう「自然主義者」もまた残酷さと生のまま対峙することを我慢できないのだ。ヴェノムが引き起こす人類に耐えられない残酷さを甘受するには、人類にはぜひとも実況音声が必要である。サディズムの語源となったフランスの小説家サド侯爵(1740-1814)の小説を一冊でも読めば、それはあきらかだ。サド侯爵の作品には虐待、放蕩が残酷に描かれている。そしてそこには、虐待者、放蕩者による実況中継が横溢しているのだ。ただ不毛に残酷描写が続くのでは、書き手も読者も耐えられないのだろうか。とにかくスポーツ中継も真っ青という念入りさで実況中継と感想が加えられる。ヴェノムはそうしたサド侯爵の精神的な子孫にほかならない。

 ヴェノム。「彼ら」はワン・プラス・ワンがどこまで行っても「ワン・プラス・ワン」にすぎないというトートロジーを生きる。その「ワン・プラス・ワン」は加算して2としてカウントされないし、よりロマンティックな1にも変容しない。ただ、相互浸透によって捕食側に対する配慮のようなチューニングがほどこされ、サド侯爵的な不断の実況解説で捕食側を慰撫しようとしているのだ。ヘビとカエルのあいだにもわずかにツンデレ関係がある。この変化を私たちは、とりあえず2でも1でもない、「1’」と呼ぶほかはあるまい。この、いたずらじみたさりげなさで算用数字1の右肩に添えられるアポストロフィー記号こそ、トートロジーの微細な亀裂である。その亀裂をこそスクリーン上に感知しながら映画を楽しみたい。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『ヴェノム』
全国公開中
監督:ルーベン・フライシャー
脚本:スコット・ローゼンバーグ&ジェフ・ピンクナー、ケリー・マーセル、ウィル・ビール
出演:トム・ハーディ、ミシェル・ウィリアムズ、リズ・アーメッド、スコット・ヘイズ、リード・スコット
配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
(c)&TM 2018 MARVEL
公式サイト:http://www.venom-movie.jp/no

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