力強さのベースにある“女の子”の感性とテーマ 山戸結希監督の才能の謎に迫る

山戸結希監督の才能の謎を考察

 被写体となる彼女たちを写す角度はどうやって決まるのか。それは、光の反射や背景、顔の造形や表情を含めた、画面の美しさなのではないか。撮影の瞬間、「この横顔や背景がいい」などと思ったら、理屈抜きにその角度を撮影してしまう。だから、カットをつないでいくにしろ、長回しにしろ、画面の輝きや俳優の感情を優先した、主観的でハッとさせるような絵づくりができるのではないだろうか。

 状況の説明は最小限に、とにかく見せたい絵を連続して見せてゆく。この手法は「少女マンガ」に多く見られる演出を思い出させる。少女マンガは、その文法に慣れない読者には、コマ構成が難解で読みにくいことがある。だが慣れてしまえば、それらは世界を主観と客観で捉えた、感覚的な表現方法だということを理解し、それを描くために進化した複雑なコマ構成の価値も理解できてくるだろう。YouTubeなどで公開された、山戸監督の短編『玉城ティナは夢想する』(2017年)で見せる、写真をカットの隙間に差し込んでいく、実験映画のような演出にしても、そういう世界観がベースにあることが、見ているうちにだんだん分かってくる。

 このような世界観、手法は、映画にとって、果たして「異端」に数えられるものだろうか。むしろ、このような描き方こそが、映像を平面に投影して、主人公たちや、つくり手の想いを観客の心に届かせる映像作品という表現の正しい運用なのかもしれない、という気さえしてくる。だから山戸監督の表現には、従来の常識を超えたような力が宿っているように感じられるのだ。

『溺れるナイフ』(c)ジョージ朝倉/講談社 (c)2016「溺れるナイフ」製作委員会

 『溺れるナイフ』では、冒頭から流れる、作詞・作曲、大森靖子による楽曲の、「絶対女の子がいいな」というフレーズが印象的なように、また自身がプロデュースする『21世紀の女の子』というタイトル、さらには山戸監督のインタビューや、彼女によって書かれた、作中の少女たちによる独白などから分かるように、山戸作品に共通しているのは、「女の子」というテーマだ。

 山戸作品に登場する女の子は、登場人物にでなく、観客にでもなく、虚空に呼びかけるように自身が純粋な「女の子」であり、女の子として世界に触れている実感を叫び続けているように感じられる。そのとき、映画は観客へのサービスを超えた、宗教的な荘厳さを獲得したようにすら思えてくる。

 女性は、「女の子」であることを経験し、その時期を通り過ぎて、いつかは大人にならなければならない…というように考えられている。そして往々にして、女の子が大人の女性に変わるとき、何かを捨て去らなければならないとも考えられている。

 樋口一葉の小説『たけくらべ』(1896年)は、遊廓のある吉原の子どもたちを描いた小説である。主人公・美登利(みどり)は、活発でいきいきと輝いている女の子だ。だが彼女は近い将来、遊女になるという運命を背負っている。子どもの世界から大人の都合が支配する世界へ。その狭間に立った美登利は、持ち前の利発さや元気を失い、ただ恥ずかしそうにうつむく性格になってしまう。彼女はこのように嘆く。

「何時(いつ)までも何時までも人形と紙雛さまとをあひ手(相手)にして飯事(ままごと)ばかりして居たらばさぞかし嬉しき事ならんを、ええ厭や(いや)厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやう(よう)に年をば取る」

 封建的な社会に生きる女性は、大人になるときに、自分の意志で生きること、主体性を一部手放さなくてはならない。そして遊んでいた人形を捨てて、自分自身が男にとっての人形のような存在になることを余儀なくされてしまう場合がある。

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