『未来のミライ』はなぜ4歳児の主人公を終始観察し続けるのか 映画における“公私混同”の是非
しかし、こうしたバランスの悪さを指摘することは、この映画の特性をつかみそこねてしまうのではないか。監督がカメラを通じてくんちゃんーーわが息子ーーへ送る熱視線にこそ、『未来のミライ』の特徴はあるのだ。かつてジャン=リュック・ゴダールは、愛する女性(妻)をカメラの前に立たせ、その美しい姿を、浮き立つような熱を込めてフィルムに焼きつけた。公私混同ここにきわまれり、といった彼の作品が、映画史にどれだけ重要な位置を占めているかは説明を要しない。「ほれぼれするほど美しい女を出演させ、その相手役に《あなたはほれぼれするほど美しい》と言わせるということ、これが映画なのだ。これほど単純なことがほかにあるだろうか!」(『ゴダール全評論・全発言 1』/筑摩書房)と述べたゴダールにとって、映画製作において公私を区切る意味などないに等しい。映画における公私混同とは、その熱量によって美点ともなりうるのだ。『未来のミライ』がこだわり続けるくんちゃんの姿は、そのカメラ=監督のパーソナルな視線の執拗さゆえに観客へ独特の感慨をもたらす。
息子への愛が、主人公への圧倒的な観察眼と微細なアニメーション表現としてスクリーン上にあらわれる。監督はきっと、子育てを通じて深いよろこびと驚きを得たのだろうと私は想像する。自分の子が生まれ、成長して自我を持ちはじめる経験が、監督をして『未来のミライ』製作へと駆り立てた。4歳児の一挙手一投足をあますことなくとらえようとするカメラは、子育てを知らない私にも、子を持つことのよろこびや苦労、育児がどのような経験かを想像させようとする。子どもの聞き分けのなさや、自分勝手さへの苛立ちまで追体験させようとする描写も興味深い。もし観客がくんちゃんのわがままな態度に苛立つとすれば、それは監督の意図した部分であろう。
とはいえ、『万引き家族』('18)や『ブリグズビー・ベア』('17)、あるいは『デッドプール2』('18)といった作品群が示唆するように、家族のあり方は旧来的な縛りから解放され、ゆるやかなつながりへと変化していくことが期待されている。家族とは血縁によって自動的に成立するものではなく、家族であることを確かめる作業と、お互いの理解や歩み寄りが必要になるのだと、これらの作品は訴えている。そうした世界的風潮のなか、あくまで血縁を重視したプロットにこだわる点など、見る人にとってはいささか古い印象があるかもしれない。
かくして『未来のミライ』は、タイトルが実際の内容にあまり沿っていない点も含めて、バランスがいいとは言えない作品である(未来は主人公ではなく、監督はそもそも、未来=妹にあまり関心を持っていない)。とはいえ、こうしたバランスの悪さ、くんちゃんへの過度な偏愛も含めて、見る者を驚かせる作品ではないか。プライベートなフィルムであることはたしかだが、たとえば補助輪を外した自転車に乗る練習(監督と息子の実体験)などからは、監督が感じていたであろう幸福が伝わってくる。自転車に乗る息子を眺めながら、こうして家族の歴史が作られていくのだなと感じた監督の気持ちは、きっと深い感情のほとばしりだったろうと想像させられるのだ。
■伊藤聡
海外文学批評、映画批評を中心に執筆。cakesにて映画評を連載中。著書『生きる技術は名作に学べ』(ソフトバンク新書)。
■公開情報
『未来のミライ』
全国東宝系にて公開中
声の出演:上白石萌歌、黒木華、星野源、麻生久美子、吉原光夫、宮崎美子、役所広司、福山雅治
監督・脚本・原作:細田守
作画監督:青山浩行、秦綾子
美術監督:大森崇、高松洋平
音楽:高木正勝
オープニングテーマ・エンディングテーマ:山下達郎
企画・制作:スタジオ地図
配給:東宝
(c)2018 スタジオ地図
公式サイト:http://mirai-no-mirai.jp/