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“内”にではなく“外”に開かれた希望ーー『空気人形』に通ずる『万引き家族』の空虚や孤独の可能性

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 父と思われる中年男と、息子と思われる少年がスーパーで仲睦まじそうに買い物をしている。何の変哲もない家族の日常を切り取ったようなこのコミカルな場面が、実は万引きをしているところだと知らされて始まるこの物語は、次第に彼ら家族の秘密を暴き出していく。

 一種のブームと化しているとも思われる「疑似家族」を描いた映画の中に、ゲイの男性カップルを描いた『チョコレートドーナツ』(2012)がある。同作では、彼らがダウン症の少年を養子として引き取り、家族を形成しようとする。しかし最終的に、少年はその母親に奪われてしまう。「あんたらが気にも留めない人生だ」と、彼らが憤って発する言葉通り、セクシュアルマイノリティと障害児という「弱者」で構成される共同体が紡ぐ「小さな物語」は、そこで交わされる心の交流や事情などを気にも留められないあまり、いとも簡単に社会や司法といった共同体による「大きな物語」に虐げられてしまう。

 『誰も知らない』(2004)を代表作として、何度も家族を主題として描いてきた是枝裕和監督だが、本作は家族の姿ではなく人形の姿を描いた『空気人形』(2009)を真っ先に思い起こさせた。『空気人形』では、ラブドールののぞみ(ペ・ドゥナ)が吉野弘の一編の詩を朗読するが、そんな吉野弘の言葉に次のようなものがある。

“他人の行為を軽々しく批判せぬことです。自分の好悪の感情で、人を批判せぬことです。善悪のいずれか一方に、その人を押し込めないことです。”

 第三者的な視点からではなく、裁く側である視点にカメラを置き、彼らと真っ向から対峙するように撮られた中盤の場面では、私たちの道徳観や倫理観といったものに強い揺さぶりをかけてくる。万引き、誘拐、死体遺棄……わかりやすい犯罪をかいつまんでそれだけで彼らを断罪するのはあまりにもたやすい。しかしそこで一旦立ち止まり、脈々と流れる文脈を想像することができるか、ということを問いかけてくる。「Invisible people=見えない人々」は、世間に置き去りにされ、あるいは見ないふりをされている万引き家族の彼らのような人々のことでもあるが、と同時に、彼らを罪に至らせてしまった、なかなか立ち現れてこない当人以外の人々のことをも指す言葉ではないだろうか。それは、劇中で信代(安藤サクラ)が「捨てたんじゃない。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです」と語った言葉の中における、その「誰か」が指す人々のことである。

      

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