『娼年』は女性の性的欲望を可視化して賞賛する 松坂桃李、覚悟の演技が生んだ説得力
松坂桃李の全裸の後ろ姿を、カメラが這うようにとらえる。初手からベッドシーンで幕を開ける『娼年』は、これが紛れもなくセックスについての映画であることを高らかに宣言する。
「女性もセックスもつまらない」とうそぶく大学生のリョウ(松坂桃李)が、映画の中の最初のその行為を気怠そうに終える。しかし、女性向けコールクラブ「Le Club Passion」を運営する御堂静香(真飛聖)と出逢うと、リョウは彼女とともに「性的な冒険」へと繰り出すこととなる。
自身の排泄を見られることに快楽をおぼえる女性、特異な趣味を持つ夫婦、セックスレスの主婦、手に触れるだけで絶頂を迎えることのできる老女……。底知れぬ女性たちの欲望や性癖にたじろぎもせず、彼は持ち前の順応性で彼女たちを次々と受け入れていく。しまいには女性だけでなく、VIP向けのコールボーイであるアズマ(猪塚健太)とも性行為に及ぶ。アズマもまた、肉体的苦痛でしか快感を得られない特殊体質だが、そんな彼からでも性的奉仕を受ければ、リョウは女性からされるのと変わらずに身を震わせ、果ててしまう。松坂桃李が発する得体の知れない純粋無垢さは、こういったリョウの娼夫としての天性に、逆説的に説得力を持たせている。
かつて、イギリス映画『こわれゆく世界の中で』(2006)のアンソニー・ミンゲラ監督は、そのオーディオ・コメンタリーにおいてこう語った。「セックスの行為そのものよりも、ベッドに入る前後の方に興味があり、演じるだけのセックスは、シーンを台無しにしてしまうために撮らない」と。恋愛や人間関係を描く多くの映画にとって、セックスは重要なコミュニケーションでもあるが、それは関係性を深めていくためのあくまで過程か、あるいは手段として、慎ましく描かれる。しかし、『娼年』にとってセックスは会話以上に会話なのであり、肉体と肉体によるコミュニケーションを決して精神の下位に位置付けたりはしない。だからといって美化しすぎるわけでもなく、滑稽さとユーモアも絶妙に交えている。
慎ましく、といえば、一般的に女性は男性よりも性に対して羞恥心を持つことを求められてきた。女性の性的欲求や性的行動の研究が、男性のそれに比べて大幅に遅れをとった要因の一つには、男性研究者にとって受け入れ難かった、という背景がある。男性の性欲ばかりが肯定され、女性の性欲はないものとされるか、男性に依存すると見なされてきたのだ。しかし、『娼年』に登場するコールクラブを利用する女性たちは、自ら対価を払い、主体的に欲望を満たそうとする。本作は、女性の性的欲望を可視化し、賞賛する映画であり、どこまでも女性に優しく作られている。そして、その欲望を一身に受けるのは、松坂桃李その人である。