>  > 映画『坂道のアポロン』に感じる息吹

映像の組み合わせ方によって“リズム”が生まれる 『坂道のアポロン』にみる、三木孝浩監督の手腕

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 生まれも育ちも違うのに、同性異性と関係なければ、年齢でさえもどうでもいい。それくらい誰かを愛おしく想った経験は誰にだってあるだろう。長崎県の佐世保を舞台に、孤独感を抱える主人公が音楽を通して出会う、“一生もの”の友情を描いた映画『坂道のアポロン』は、そんな想いがふっと蘇る作品だ。

 マンガ実写化映画の連発のひとつに数えられる本作に、「またか」と思う向きもあるだろう。それも原作の熱狂的な人気を考慮すれば、実写化に対して否定的な声が上がるのも無理はない。たしかに映像化することにおいては、原作ファンの期待値を大きく上回ったアニメ化の時点で、すでに完結していたようにも思える。そんな本作であるが、マンガからの改変や省略を巧みに施し、原作もの実写化の職人・三木孝浩が見事に1本の映画として結実させた。

 マンガともアニメとも違う始まり方をする本作は、大人になった主人公・薫(知念侑李)が過去を回想する形で幕を開ける。“いま”の彼の周りには人が集まり、子どもたちは本作のメインナンバーである「モーニン」のピアノ演奏をせがむ。さっそく三木作品特有の、まばゆい白い光を浴びた彼の指が鍵盤上を踊り、舞台である1966年の佐世保の風景をバックにした渋いオープニングクレジットへと続き、やがて孤独でどこか厭世的な“かつて”の薫が登場する。“いま”と“かつて”の彼の違いをコンパクトに見せ、この違いに影響した“何か”をこのあと展開させていく。

 三木監督はこれまでにも、『ソラニン』や『くちびるに歌を』などの原作ありきの非・オリジナル作品で音楽を大きく扱ってきた。マンガの絵や小説の活字を追っていく場合、登場人物たちのその表情や声や仕草を、読み手は想像力で埋めなければならない(もちろん、これこそがマンガや小説の魅力でもある)。言うまでもないが実写の場合、それらのイメージはより具体的に観客の前に立ち現れることとなる。ここに作り手側と観客の間に齟齬があれば、作品への批判の対象ともなってしまうのだろう。この齟齬とは観客にとって、それはまるで心から信じきっていた誰かのまったく別の顔を発見してしまったときのような、ある種の恐怖すら感じるものだ。

 紙媒体での「実際には音の鳴らない」作品に音を与えたことは、映像化することのたしかな最大のメリットであり、これはアニメ化の時点でも及第点を遙かに超えていた。見せ場である文化祭での演奏シーンは、限られたコマ数で表現しなければならないマンガ以上に映像はさらに細分化が可能で、しかもその映像の組み合わせ方次第ではさらなるリズムを生み出すことができる。

 本作で白眉なのが、出会って間もない薫と千太郎(中川大志)が退屈な授業中にセッションをする場面だ。とはいえ楽器はないため、鉛筆と指のセッションとなる。ここに劇伴が重ねられ観客は音楽を耳にするのだが、これはもちろん映画のあからさまな嘘で、教室では指と鉛筆が机をはじく音が響いているだけなはずである。それを律子(小松菜奈)がうっとりと見つめることで、あたかもそこで音楽が奏でられているかのような心躍る瞬間が生まれる。

 もちろん本作の完成度、原作からの再現度に貢献した、俳優たちの魅力にも触れたい。マンガから飛び出してきたかのような薫、千太郎、律子らの存在。俳優たちの表情や息づかいが、演じるキャラクターに、さらには作品そのものに豊かさを与えているのは当然のこととして、やはり生身の演者たちが吹き替えなしに実際に演奏している姿を見るのは気持ちが良く、このリアリティはマンガでもなくアニメでもなく、実写の映画である本作だけが獲得できたものである。

      

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