モルモット吉田の『何者』評:演劇出身監督は“SNS”をどう映画に活用したか?
そう、果たして自分が何者であるかを〈ほんの少しの言葉〉で語ることができるのかが、この映画の主眼となる。原作を忠実に映像化しながら、1分間の限定された時間で自身を語るという原作にない設定を用意したのも、その一点に突き進んでいくためだ。映画の冒頭では拓人のTwitterのつぶやきに重ねて、こんなモノローグが響く。
「1分間で話せる言葉は、Twitterの140字のようにごく限られたもの。短く簡潔に自分をどれだけ表現できるか。就職活動はそれがすべてだ」
この(就活≒SNS)が映画ではいっそう明瞭となり、SNSを通じて就活を描くことで『何者』は古典的な就職難映画をリノベーションさせることに成功したとも言える。
一方で、肝心のSNSの文字情報をどう見せるかにおいて、いささか保守的に感じたのは筆者だけだろうか。原作小説の場合、その文中で引用されるSNSはフォントや文字の濃さを変えたり改行することで他の文とは区別させつつ、文字という同じ連なりの中で表現できたが、映画の中で文字をどう見せるかは、監督が(映像×文字)の関係をどう考えるかが反映される。原作では後半、あるTwitterのつぶやきが過去から現在に至るまで一斉に羅列される。これは映画も同じ展開をたどるが、文庫本で10ページにわたって20以上のツイートが並ぶのが壮観だ。普通に考えれば、これは小説ならではの文字表現である。そのまま映像にしても、文字が並んでいるだけになってしまう。本作ではこの描写を映画独自のアレンジとして演劇的な描写を加味して見せる。これは監督の三浦大輔が舞台演出家という背景を知れば、自身の得意とする分野に取り込んだと理解できる。実際、この演劇パートは現実を異なるレイヤーから眺めるという点では効果的ではある。
しかし、ドキュメンタリー『人間蒸発』(67年)で、今村昌平監督の声を合図に四方の壁が取り外され、現実の部屋と思っていた場所が撮影所の中に組まれたセットと明かされるサプライズ演出から半世紀近く経ち、白い枠線だけで演劇の様に全篇を展開させた『ドッグヴィル』(03年)なども経た今、こうした演劇的手法は図式的に見えてしまう。主人公の拓人が演劇への道を歩むか就職かに揺れる心情を象徴するもの以上には機能しておらず、文字だけでは成り立たないと見越しての見せ場にしか思えない。これでは(就活≒SNS)を描くために映画の中に演劇的表現を取り入れたはずが、(映画・演劇>SNS)に思えてしまう。実際、文字表現への信頼のなさは、ツイッターの文字にモノローグや台詞が重ねて読まれる描写が多用されていることからもうかがえるだろう。
その点では、映画監督の方が過激かも知れない。パソコン通信で交わされる文字を森田芳光監督は『(ハル) 』(96年)で、掲示板に書き込まれる文字を岩井俊二監督は『リリイ・シュシュのすべて』(01年)で主人公が匿名の相手とやり取りを行う際に文字表現を大胆に取り入れ、風景や人物を撮る時と同じ重量感と量で文字を映した。岩井俊二はその後も『市川崑物語』(06年)でほとんど文字だけでドキュメンタリー映画を1本作ってしまったが、『リップヴァンウィンクルの花嫁』(16年)冒頭の雑踏でネットを介して知り合った男と初めて逢う場面で、SNSの文字と現実世界での手の動きを絶妙にカットバックさせたように、映画の中でSNSを巧みに使いこなしている。
『何者』でも拓人が烏丸ギンジのブログに苛立ちLINEで憤りを伝えるシーンは、文字表現が最も高揚感を持って描かれている。画面の半分が不快感に満ちた顔でスマホを打ち続ける拓人、もう半分にLINEの画面が表示されている。一方的に意見を送りつける拓人のメッセージに既読の表示が出るが、なかなか返信は来ない。やっと送られてきたギンジの言葉はごく短いが真摯な決意が記されている。メッセージが矢継ぎ早に送られる速度、ギンジの既読から返信までの焦らしに、2人の関係性と性格が見えてくる。こうした画面に文字情報量を充満させたシーンがもっとあれば、ひとつのシーンでも現実の顔と、SNSの表アカウントに書かれた装飾された言葉、匿名アカウントやLINEに書かれた本音など、複数の感情を同時進行で描くことができたのではないだろうか。