モルモット吉田の『何者』評:演劇出身監督は“SNS”をどう映画に活用したか?
現実をできるだけ忠実に再現した内容の映画でも、誇張やウソは混じる。例えば玄関や自転車の鍵をかけなかったり、携帯電話はいつも音が鳴る設定になっていたり、妙に気になる時がある。物語をスムーズに進行させるため、画面の躍動を削がないために、映画やドラマがあえてつくウソである。まあ、そういう習慣だと言い張れなくもないが、流石に若い女性の一人暮らしで夜、帰宅して鍵をかけなかったりすると、その映画への信頼度はぐっと低下する。
今なら、スマホ、タブレットをどう扱うかも気になる。電車に乗れば、大半の乗客が下を向いて何らかの端末を弄んでいる。歩きながら、食事しながら、片手に持ったそれを眺めている。しかし、映画やドラマでは未だに小道具という感じでしか使われていない。物語から必要がなくなるとスマホから目を離し、時にはポケットにしまって画面上からは消えてしまう。観客の視点を余計な所に向けさせないためだ。だが現実では(親しい仲という条件が付くだろうが)、会話中でもメール、Twitter、LINEなどが起動し、つぶやきや返信がひっきりなしに行われ、それを咎めようともしないはずだ。それを映画にリアルに導入すると、役者がずっと俯いて手元でコソコソしているだけの作品になってしまう。だから映画はあえてウソをつく――そこに異議を唱えたのが『何者』だ。
『何者』が描くSNSの世界
主人公の就活生・二宮拓人(佐藤健)は、映画の主役にあるまじき態度と思えるほど、やたらとスマホを触っている。拓人は社会学部の同級生・田名部瑞月(有村架純)から誘われ、同居人の神谷光太郎(菅田将暉)と共に上の階に住む小早川理香(二階堂ふみ)の部屋を訪れる。レイアウトは同じなのに雰囲気の違う部屋に光太郎は屈託なく感嘆の声を挙げ、直ぐに理香と打ち解けるが、その最中も拓人は下を向いてモゾモゾとスマホを弄っている。なるほど、リアルと言えばリアルだが、普通のドラマで主人公がこんな行動を取ると悪目立ちしてしょうがない。やはりウソは必要だったのだ。
もちろん、本作ではこうした行動が単なる表層的な描写ではないことが後に明らかになるのだが、拓人以外にも片時もスマホを離さずTwitterやInstagramへの投稿に余念のない人々をシニカルな視点で描く。彼らは理香の部屋に集まって就職情報を共有するようになるが、拓人がふとTwitterを検索してみると、いつの間にか彼らを撮った写メが理香のアカウントからアップされ、さらに理香とつきあって短期間で同棲するようになった宮本隆良(岡田将生)は就活に興味ない素振りを見せて部屋の隅で距離を開けていたにもかかわらず、ちゃっかりその様子を撮影してInstagramでポジティブな言葉と共に着飾らせている。拓人がかつて演劇サークルで共に活動し、今では独自に劇団を立ち上げた烏丸ギンジのブログにはやたらとキャッチーなタイトルで人脈自慢と途中過程が仰々しく記されている。こうした“SNSあるある”が観客の共感を集めることは想像に難くない。
共感で言えば就活も同様だろう。主人公になかなか内定が出ない悲哀は、映画でも数え切れないほど描かれてきた。深刻な不況に見舞われた87年前、小津安二郎が監督した『大学は出たけれど』(29年)では、面接で受付勤務なら雇用可能と言われた男が、大卒の自分にはそんな仕事は出来ないと蹴るが、仕事は見つからず、婚約者が生活費を稼ぐためにカフェへ働きに出る。やがて男は自分が大学を出たというだけで未だ何者でもないと悟り、最初の会社へ受付で働かせて欲しいと頼みに行くと……という物語である。対照的に売り手市場のバブル期を舞台にした『就職戦線異状なし』(91年)では、主人公と腐れ縁の的場浩司が、「なりたいものじゃなくて、なれるものを探し始めたらもう大人なんです」と告げる印象的なシーンがある。
こうして映画は景気の動向に関係なく、就職を通して自分が何者かに向き合う姿を描いてきたわけだが、『何者』でも主人公が自分は何者なのかを問われることになる。ことほどさように本作の就活は目新しい題材ではない。現代における就活マニュアル映画でもないし、そのシステムに疑問を投げかけるわけでもない。現状を追認し、その断面を見せているに過ぎない。原作自体がそうだが、学歴フィルターや、企業から評価されて落とされることへの戸惑いも描かなければ、圧迫面接で凹むわけでもなく、周囲の友人関係の中での優越感、嫉妬だけである。では『何者』が何を描こうとしたかは、原作から引用した方が手っ取り早い。
いつからか俺たちは、短い言葉で自分を表現しなければならなくなった。フェイスブックやブログのトップページでは、わかりやすく、かく簡潔に。ツイッターでは一四〇字以内で。就活の面接ではまずキーワードから。ほんの少しの言葉と小さな小さな写真のみで自分が何者であるかを語るとき、どんな言葉を取捨選択するべきなのだろうか。
『何者』(朝井リョウ著/新潮文庫)